おまけ 朝比奈のセミナー
― 翌日の社内セミナー
『好きな部分だけ取り入れるという選択』
午後の社内セミナー。
壇上に立つ朝比奈は、用意していたスライドを一度閉じ、
穏やかに会場を見渡した。
「今日は、予定していた話を少し変えます。」
静まり返る会場。
朝比奈は、マイクを軽く持ち直した。
「昨夜、“彩”という行きつけの店で、友人と話をしていて、
ちょっと面白い気づきがあったんです。」
彼女は少し笑みを浮かべながら続けた。
「その友人――佐伯という女性なんですが、
“最初は山城さんの雑さが本当に嫌いだった”って言うんです。
でも最近は、
“ドラム叩いてる姿とか、仕事の決断力とか、そういう部分はすごく好きになってきた”と。」
会場から少し笑いが起きる。
朝比奈も微笑みながら、静かに言葉を重ねた。
「その話を聞いて思ったんです。
“嫌いを減らそう”とするのって、実はとても難易度が高いことなんですよね。
なぜなら、“嫌い”って防衛反応の一種だから。
自分を守るために、自然にブレーキとして働いている。」
朝比奈はホワイトボードに一本の矢印を描く。
「人は“嫌い”というベクトルを完全に消そうとすると、
この方向に強い摩擦がかかります。
押し返されて、疲弊してしまう。
でも、そのベクトルの摩擦を意識して避けるだけで、心の消耗は減らせる。」
矢印の脇に、もう一本の小さな線を描く。
「つまり、“嫌いな部分を変えようとしない”代わりに、
“好きな部分だけを取り入れる”。
それだけで、摩擦を避けながら前に進めるんです。」
会場の数人が頷く。
朝比奈の声は静かだが、確かな重みがあった。
「私たちはつい、“嫌いをなくそう”と努力します。
でも、人も仕事も、完全に好きになれるものなんてほとんどありません。
大事なのは、“嫌いとどう距離を取るか”。
そして、“どの方向に進むか”を自分で決めることです。」
朝比奈は、ホワイトボードを指さしながら締めくくった。
「嫌いを減らすより、好きな部分を拾う。
正面からぶつかって摩擦を増やすより、
流れの向きを少しずらして、推進力に変える。
そうやって心のベクトルを運用する方が、ずっと現実的で持続的です。」
彼女はマイクを置き、静かに会場を見渡した。
そこには、理論としてではなく“生き方の指針”として響いている表情があった。
「……昨日の彼女は無意識にそれをやっていました。
嫌いを無理に消さず、好きな要素を選んでいた。
人をまるごと好きになれなくても、部分的に敬意を持てる。
それで十分なんです。」
小さな拍手が起きた。
朝比奈はその音を受けながら、心の中でつぶやいた。
──嫌いを減らすのは難しい。
でも、摩擦を避けながら“好き”を拾っていくなら、誰にでもできる。
そして彼女は静かに笑った。
昨夜、彩で交わした佐伯の何気ない言葉が、
今日ひとつの“理論”として形になっていた。
― 朝比奈涼子講演「努力のない幸福社会論」ホテルの小ホール。
白いクロスのテーブルが並び、薄明かりの中にコーヒーの香りが漂っていた。
壇上に立つ朝比奈涼子は、グレーのジャケットに身を包み、ゆっくりとマイクを握った。
背後のスクリーンには、一行の文字。
『努力のない社会は、怠けた社会ではない』
彼女は一呼吸置いて、静かに語り始めた。
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「“努力してる人”って、どんな顔してますか?」小さな笑いが起こる。朝比奈は目尻を和らげたまま続けた。
「だいたい眉間にシワが寄ってますよね。 でも、あれは努力の証じゃなくて――摩擦の証拠なんです。」ざわつく会場。
彼女は視線をゆっくり巡らせる。
「努力そのものは素晴らしい。 けど、徹夜で疲弊し、効率を落とすことを“努力”と呼んではいけない。
それは“時間の浪費を美化する文化”です。」
スクリーンに文字が浮かぶ。
苦労=摩擦の熱損失努力=流れの設計「努力って、本来“前に進むための設計”なんです。
でも多くの人が、“苦しい方が正しい”って思ってる。
それは違う。
努力の量じゃなく、方向がすべてなんです。」
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朝比奈は笑みを浮かべた。
「うちのチーム『彩』では、“頑張ります”って言葉を禁止してます。」会場に小さな笑い声が走る。
「代わりに言うのは、“整えます”。 頑張るより、整える。 力むより、流れをつくる。
――それが、サイサイセオリーでいう“整流”です。」
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そこで一拍、言葉を切る。朝比奈はゆっくりと水を口に含み、次の言葉に、少しだけ熱を込めた。
「でもね、アドレナリンは悪くないんです。」一瞬、会場の空気が変わる。
「意図的に使うなら、最高のブーストになる。 試合前のアスリートみたいに、短時間だけ集中を高めて突破する。あれは“感情の戦略的使用”です。」
指で空をなぞりながら、彼女は続けた。
「ただし、それを常用すれば摩耗する。流れの中で、意図して高ぶらせ、意図して戻す。それが大人の努力。燃やしっぱなしじゃ、どんな才能も枯れてしまう。」
スクリーンに映し出されるフレーズ。アドレナリン=推進のブースト使い方を誤れば、摩耗の毒
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「努力を否定してるわけじゃありません。」
朝比奈は柔らかく笑った。
「私が否定したいのは、“苦労している自分に酔う時間”です。 徹夜して、疲れて、何も進んでいないのに“頑張った”と錯覚する。 それは努力じゃない、自分への慰めです。」
彼女は会場の一番後ろに目をやり、静かに言葉を落とした。
「努力は、燃やすものじゃない。 流すものです。」
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拍手はなかった。けれど、誰もが一瞬、息を止めていた。その沈黙の中で、朝比奈はゆっくりとマイクを下ろし、最後の言葉を残した。
「アドレナリンはスパイスです。 日常を焦がす燃料ではなく、 “瞬間の炎”として、自分を動かす力に変える。
――
それが、本当の努力の使い方です。」
ステージのライトが少し落ちた。彼女の影がスクリーンに伸びる。背後の文字が、ゆっくりと光を変えていく。
『努力の再定義――燃やすより、流す。』静かな拍手が、波紋のように広がっていった。
セミナー「ユナイトを増やす ― チームを動かす“つながりの法則”」
講師:朝比奈涼子⸻
都内のオフィスビル、会議室。ホワイトボードの前に立つ朝比奈涼子は、いつもの「彩」での柔らかな笑顔をそのままに、マイクを手に取った。
「こんにちは。今日は“ユナイト”―― つまり“人と人をつなぐエネルギー”について、お話しします。」
ざわついていた会場が静まる。新入社員たちが、メモ帳とペンを構えた。
「このユナイトは、チームワークの燃料です。 どんなにスキルがあっても、ユナイトが不足するとチームは動かなくなる。 逆に、少し増えるだけで、空気が変わる。」
彼女はそう言って、ホワイトボードに丸を描き、矢印を繋げた。行動 → 信頼 → 推進力
「この矢印を強くするのが、ユナイト。今日は、誰でもできる3つの方法をお伝えします。」⸻
1. 挨拶 ― “最安で最高のユナイト装置”朝比奈は軽く笑いながら言った。
「まずは、挨拶。 これ、あなどれません。」
ホワイトボードに書かれる文字。
『挨拶=最もコスパのいいユナイト行動』
「仕事の中で、いちばん手軽に“つながりポイント”を稼げるのが挨拶なんです。 しかもコストゼロ。声をかけるだけで、空気が和らぐ。それだけで“この人と働きたい”と思われる。」
会場の前列で誰かがうなずく。朝比奈は続けた。「ただし“声が小さい挨拶”は、逆効果です。ユナイトはテンションで決まる。明るさ・タイミング・目線――この3つが大事です。」
彼女は軽く例を見せるように、笑顔で言う。
「おはようございます!」明るい声が会場に響き、空気がふっと軽くなった。
「ね? 空気、変わりますよね。 挨拶は“場のスイッチ”なんです。」
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2. コミュニケーション ―
“距離を測るレーダー”
朝比奈は両手を少し広げて言った。
「次は、コミュニケーション。よく“雑談が苦手です”という人がいますが、雑談って“距離を測るレーダー”なんですよ。」
彼女は両手で距離を示しながら、穏やかに語る。「話しかけすぎると近い。黙りすぎると遠い。 その“間”を探るために、何気ない会話があるんです。 たとえば、
『今日ちょっと寒いですね』――これで十分。」
スライドには、次の文字が映る。話す=接続の起点/聴く=共鳴の始まり
「話すことよりも、聞くときの“空気の温度”が大事。声を明るく、目線を優しく。それだけで、相手のセフティ(防御ベクトル)が緩みます。人は“安心”を感じて初めて、つながるんです。」
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3. 感謝 ― “ユナイト×ランクのボーナス行動”朝比奈はマーカーを置いて、少し真剣な表情になった。
「最後は、“ありがとう”。これは、ユナイトとランクの両方を上げる“ボーナス行動”です。」スライドに現れる文字。“ありがとう”は、最短距離の信頼構築
「“ありがとう”は言う側も言われる側も気持ちが上がります。しかも、一瞬で信頼が積み上がる。 ポイントは、“ありがとう”の後ろに“理由”を一言添えること。」朝比奈は例を挙げた。「“資料助かりました”よりも―― “資料のまとめ方がすごくわかりやすくて助かりました”の方が相手の“ちゃんと見てくれてる”というランクを満たします。」
会場の後方で、数人が同時にメモを取った。
「感謝は、相手の努力を可視化する行動。だから、チーム全体のエネルギーが増える。これこそが“ユナイトの再生力”です。」
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4. ユナイトがチームを動かす
朝比奈は再びホワイトボードの前に立ち、矢印を描き直した。
挨拶 → 信頼コミュニケーション → 共鳴感謝 → 承認= チームワークのブースト
「この3つが積み重なると、 チームは“燃料切れしない組織”になります。」彼女はマーカーを置き、静かに語る。
「ユナイトが多いチームは、衝突しても立ち直りが早い。 誰かが落ちても、誰かが引っ張り上げる。それは、“信頼の貯金”があるから。」
そして少し微笑んだ。
「チームを強くしたいなら、スキルよりユナイトを増やす。誰でも、今すぐできる方法で。」
会場に、穏やかな拍手が広がった。それは派手ではない。でも、確かに空気が変わった。
――そこに、ユナイトが生まれていた。⸻
ホワイトボードの端には、朝比奈の小さなメモが残っていた。「ユナイトとは、信頼を循環させる力」その文字は光を受けて静かに輝き、まるでチームの未来をそっと照らしているようだった。
セミナー「反作用ベクトルと行動の中身」
講師:朝比奈涼子
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都内の会議室。午後の光がブラインド越しに差し込み、テーブルの上のペンと資料が鈍く光っていた。前列には管理職クラスの社員たち。どこか構えるような雰囲気の中で、朝比奈涼子がマイクを取った。黒のジャケットに白のブラウス。その立ち姿には、居酒屋「彩」での柔らかな印象とは違う、研ぎ澄まされた空気があった。
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「今日のテーマは、“反作用ベクトル”。 難しく聞こえますが、簡単に言えば――人が動かなくなる瞬間の力のことです。」ホワイトボードに、一本の矢印と、その逆方向の矢印が描かれる。
「部下が“やる気をなくす”とき。実際には“やる気”が消えたわけではありません。反対方向に別の力が働いた。つまり、“あなたの言葉か指示”が、意図せずその力を生んだということです。」
会場に、静かな緊張が走る。朝比奈はゆっくりと笑った。
「今日は、“人を動かす”ために必要な物理――ベクトルの話をします。」
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茜さんの掃除 ― 命令が熱を奪う瞬間スライドに映し出されたのは、店のトイレの写真。磨き上げられた鏡が光を反射している。
「うちのスタッフの茜さん。ある朝、誰に言われたわけでもなく、トイレ掃除をしていたんです。 “お客様を気持ちよく迎えたい”という想いだけで。」
彼女は少し間を置き、トーンを落とす。「そこに通りかかったパートさんが言いました。『掃除、あとでやっといてね。』」
会場に苦笑が広がる。朝比奈は、穏やかな声で続けた。
「この一言で、空気が変わる。 茜さんの中では“仲間のために”というユナイト、“誇りを持って”というランクの力が働いていた。でも、“命令”というセフティの圧力が逆方向に作用した。
――
結果、行動は続いても、心のベクトルは止まった。」
ホワイトボードに2つの矢印が描かれる。右へ伸びる「やる気」と、左へ戻る「指示」。「これが、反作用ベクトルです。」
そして、視線を聴衆へ向けた。「リーダーが“やらせよう”とした瞬間、その部下の“やりたい”が消える。これを理解せずに“モチベーション管理”はできません。」
⸻
高橋くんの話
― 同じ動きでもベクトルは違うスライドが切り替わり、今度はジムの写真。バーベルを持ち上げる高橋の姿が映る。
「もう一つ、常連の高橋くんの話を。彼は職で、ジムでも筋トレを欠かさない。仕事でもトレーニングでも、毎日“重いものを持つ”。でも、まったく別の顔をしてるんです。」
会場の数人が小さく頷く。朝比奈は笑みを浮かべた。
「彼はこう言いました。“同じように重いものを持ってるのに、仕事は減る疲労で、トレーニングは増える疲労なんです。”」
彼女はペンで二つの矢印を描く。
「現場では、“早く終わらせろ・効率・ケガするな”というセフティ主導。一方でジムでは、“挑戦・成長・達成”というランクとライフのベクトル。 ――体の動きは同じでも、内側のベクトル構成が違う。だから、結果が真逆になる。」
そして静かに言った。
「人を“動かす”とは、身体を動かすことじゃない。内側のベクトルを整えることなんです。」
⸻結び ― ベクトルを読める人が、人を動かせる朝比奈はペンを置き、聴衆を見渡した。
表情には確信と、わずかな微笑みが混ざっていた。
「行動の価値は、“何をしたか”ではなく、“何で動いたか”で決まる。つまり、マネージャーが見るべきは、行動の中身なんです。」
スクリーンに浮かぶ言葉。行動は同じでも、ベクトルが違えば未来が変わる。
「指示の仕方ひとつで、反作用が生まれるか、推進力が生まれるかが決まる。
同じ『掃除して』でも、“任せたよ”と“やっといて”では、ベクトルの方向が真逆になる。
部下を動かしたいなら、命令ではなく、流れを整える言葉を使うこと。」
少し間をおき、朝比奈は静かに微笑んだ。
「人のベクトルは、変えられません。でも、“向きを合わせる”ことはできる。それが、真のマネジメントです。」
そして、最後の一言をホワイトボードに書いた。
“反作用を読む人が、人を動かす人になる。”
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会場は静まり返っていた。拍手も歓声もない。ただ、一人ひとりが自分の部下の顔を思い浮かべ、心の中で小さく頷いていた。
その沈黙こそが、朝比奈が目指した「理解の証」だった。




