セミナー
― 「朝比奈涼子、セミナー準備中」
昼下がりの「彩」。
カウンターにはノートパソコンと資料の束、そして温くなったコーヒー。
涼子はモニターを見つめながら、スライドの構成を何度も組み直していた。
「“反作用ベクトル”の説明はもう少し短くした方がいいわね……」
独り言のようにつぶやきながら、指先でスライドを送る。
背景には低くジャズが流れ、店の空気は穏やかだった。
そんなとき、入口のドアベルが鳴った。
入ってきたのは、スーツ姿の広中。
資料ファイルを片手に、どこか達成感のある笑みを浮かべていた。
「お、やってるな。――ちょうどいい報告がある。」
涼子が顔を上げる。
「決まったのね?」
広中は軽く頷く。
「セミナーの日程、正式に決まった。来月の15日、丸の内のカンファレンスホールだ。」
「……思ったより早いわね。」
涼子は少しだけ眉を上げた。
「準備、間に合うかしら。」
「お前なら大丈夫だろ。こっちはスポンサー側も押さえた。タイトルは“行動のベクトルと組織活性化”で通した。」
広中はファイルをカウンターに置き、ほっと息をつく。
「武田さんにも連絡済み。登壇の枠は三人――私と、お前と、甲斐先生だ。」
涼子はわずかに微笑み、閉じかけたノートPCを再び開いた。
「なら、やるしかないわね。『彩』で仕込んだ理論、ちゃんと伝えないと。」
広中がグラスの水を一口飲み、呟くように笑う。
「“居酒屋発の理論セミナー”、だなんて、誰も信じないだろうな。」
涼子が続ける。
「企業研修って、結局“やる気を出せ”で終わるじゃない?
でも、やる気の根っこには“エネルギー構造”がある。
それをサイサイで解いてあげれば、
モチベーション管理もメンタルケアも“理論的”にできる。」
涼子の目は、すでに次のスライドを見据えていた。
「セミナー当日の控室」
丸の内のカンファレンスホール。
開場まで、あと三十分。
控室の長机にはノートPCと配布資料、そしてコンビニのコーヒーカップがいくつも並んでいた。
外のざわめきがドア越しに微かに聞こえる。
涼子はスライドの最終確認を終えると、深呼吸を一つ置いた。
「……こんなに緊張するの、久しぶり。」
彼女の隣では、甲斐が眼鏡を外して静かに頷く。
「研究発表と違って、相手が“生活者”だからね。学術語じゃ通じない部分が多い。」
涼子は微笑んだ。
「でも、“彩”で散々鍛えられたわ。あそこじゃ、理論だけじゃ誰も耳を傾けてくれない。」
ドアがノックされ、広中が顔を出した。
スーツの袖を軽く整えながら、いつもの調子で言う。
「二人とも、準備はいいか? 会場、ほぼ満席だ。スポンサー側の席も埋まってる。」
甲斐が少し驚いたように顔を上げる。
「満席? そんなに告知したのかい?」
「武田さんのネットワークが効いたらしい。金融、教育、医療、いろんな業界から来てる。」
広中は笑いながらペットボトルの水を開けた。
「“居酒屋発の行動理論”ってコピーが妙に刺さったんだと。」
涼子は苦笑した。
「まるで冗談みたいな肩書きね。」
「でも、冗談みたいな発想が時代を動かすんだよ。」
広中が腕時計を見て言う。
「あと十五分。甲斐先生が導入、俺が実例。最後を涼子で締める。」
甲斐が資料を閉じ、静かに言葉を添える。
「“理論を信じてる”ではなく、“理論で人を信じられる”ように。……その話で締めるといい。」
涼子は深く頷いた。
そしてスライドの最初のページをもう一度開く。
画面に映るタイトル――
『Psy-Sci Theory:行動のベクトルが変える組織と個人の未来』
ドアの向こうでスタッフの声が響く。
「登壇者の皆さま、ご案内いたします。」
広中が立ち上がり、軽く拳を突き出した。
「じゃあ、行こうか。“彩”の夜が、ここで証明される。」
三人は目を合わせ、小さく笑い合った。
扉の向こうには、まだ見ぬ聴衆と、確かな期待の熱気が待っていた。
小説風シーン ― 「ベクトルが、動き出す瞬間」
ホールの照明が少し落ち、壇上のスクリーンにタイトルが浮かび上がった。
『Psy-Sci Theory:行動のベクトルが変える組織と個人の未来』
三人が登壇すると、ざわめきが静まり返る。
聴衆の多くはスーツ姿の経営者、管理職、そして大学関係者。
“居酒屋発の理論”という異色の肩書に、半信半疑の表情が並んでいた。
甲斐がマイクを取り、静かな口調で話し始める。
「行動を“やる気”や“感情”で説明しようとする理論は、これまでにも数多くありました。
ですが、私たちは――“力の向き”に注目しました。」
スライドに五つの矢印が現れる。
Life/Safety/Unite/Rank/Learn
会場に軽いざわめきが起きる。
ビジネス理論でも心理学でもない、不思議な均衡をもつ言葉の並び。
続いて広中が一歩前へ出た。
「この理論を、僕は“彩”という小さな居酒屋で実験しました。
客の一言、スタッフの反応、嘆きの投稿――全部データです。」
スクリーンに映し出されたのは、店内の写真と手書きのグラフ。
笑顔の客、匿名のコメント、そして「摩擦」「リジェネ」といった不思議な言葉が添えられている。
会場の空気が少し変わった。
「居酒屋の話」が、徐々に「人間の話」に聴こえてくる。
そして涼子がマイクを受け取る。
「――ベクトルは、誰の中にもあります。
でも多くの人は、自分の“反作用”を知らないまま動いています。
安全を求める力が、進む力を打ち消していることに、気づいていないんです。」
静寂。
涼子は一拍置き、視線を聴衆に向けた。
「私たちは“やる気”を出す方法ではなく、“摩擦を減らす方法”を探してきました。
その方が、人はずっと自然に動き出せるからです。」
スクリーンに映る矢印が、ひとつ、またひとつと重なっていく。
ベクトルが合力となり、前へ進む一本の線になる。
その瞬間――聴衆の表情が変わった。
後方の席で腕を組んでいた武田は、微かに笑みを浮かべた。
「……やるじゃないか。」
隣の企業家が小声で呟く。
「これ、本当に居酒屋から生まれた理論なんですか?」
武田はグラスの代わりに、手にしていたパンフレットを軽く掲げて言った。
「そう。“彩”って店だ。
あそこは、ただの飲み屋じゃない。“本音と理論の実験場”だよ。」
壇上では涼子が最後のスライドを示していた。
「――行動の理由を、誰かに委ねる時代は終わりました。
自分のベクトルを知ることが、最初の一歩です。」
拍手がゆっくりと広がり、やがてホール全体を包み込んだ。
武田はその音の中で、静かに目を閉じた。
(ようやく、“彩”の夜が外の世界に届いたな。)
― 「質疑応答 ― 理論が問われる瞬間」
拍手が静まり、司会者がマイクを取った。
「それでは、ここから質疑応答に入ります。質問のある方は挙手をお願いいたします。」
数秒の間を置いて、スーツ姿の男性が手を挙げた。
「はい、そちらの前列の方。」
男は企業の経営層らしい落ち着いた口調で立ち上がった。
「御三方の発表、とても興味深く拝聴しました。
ただ一つ――“行動をベクトルで表す”というのは面白いですが、実際にどう測定するんです?
社員のモチベーションや安全欲求を、どう数値化できるのか。」
会場の空気が少し引き締まる。
甲斐が静かにマイクを取った。
「ご質問、ありがとうございます。
実際には“測定”というより、“観測”に近いです。
言動・反応・停滞のパターンを分析し、ベクトルの向きを推定する。
定量ではなく、動きの“力学的な相関”を捉えます。」
男は頷きながらも、表情は崩さない。
「なるほど。ただ、それでは属人的では?
観察者によって解釈が違うのではありませんか。」
今度は涼子が一歩前に出る。
「ええ、だからこそ“彩”で試しました。
嘆きシステムを通して、個人の言葉と反応をデータとして蓄積し、共通パターンを抽出しています。
例えば“指摘された後にすぐ行動できる人”と“落ち込んで動けない人”では、
セフティとランクの比率が明確に違うんです。」
スクリーンに軽い図が映る。
青い矢印が前へ、赤い矢印が後ろへ。
矢印の角度が違うだけで、同じ行動でも結果がまったく異なる。
聴衆の数人がスマホで撮影を始めた。
続いて、別の女性が手を挙げた。
「心理学者の立場から一つ。
“反作用ベクトル”という概念は、従来の防衛機制や自己保存本能と何が違うのでしょうか?」
甲斐が軽く笑った。
「非常に鋭い質問ですね。
防衛機制は“心の結果”を説明する理論ですが、
反作用ベクトルは“行動の手前”を説明します。
つまり――感情になる前の“力”を扱うんです。」
涼子が補足するように続けた。
「たとえば、“怖いからやめた”ではなく、“セフティがランクを打ち消した”と見る。
感情ではなく、力の方向として理解する。
これが私たちの枠組みの特徴です。」
会場の空気が変わった。
理論への懐疑が、少しずつ興味へと変わっていく。
最前列の老教授がゆっくりと手を挙げた。
「最後に一つ。あなた方の理論は、要するに“やる気の科学”を再構築したものですか?」
広中が軽く笑って答えた。
「いえ、“やる気”は結果です。
私たちは、“やる気が出る前の物理”を扱っています。」
会場に小さなどよめきが起き、
次の瞬間、拍手が再び広がった。
質問者たちも微笑み、武田は腕を組んだまま、ゆっくりと頷いた。
(理論は、もう“説明”じゃなく“対話”になったな。)
照明が少し上がり、司会者が締めくくる。
「以上で質疑応答を終了いたします。登壇者の皆さま、ありがとうございました。」
三人が一礼し、会場の光を背に舞台を降りた。
ホールの外には、すでに名刺を持った人々の列ができ始めていた。




