日常の気付き
― 休日「体の摩擦」
休日の午前。
サイジム一階のトレーニングフロアには、穏やかなローファイが流れていた。
窓際では観葉植物が秋風に揺れ、会員たちがそれぞれのペースで体を温めている。
外は雲ひとつない秋晴れだった。
「うわ……初めて来たけど、本格的だな。」
山本がジム内を見渡しながらつぶやく。
マシンが整然と並び、鏡には休日組の会員が静かにフォームを確認していた。
「俺は現場仕事だけど、たまには“頭を使わない運動”も悪くないだろ?」
隣でストレッチをしている高橋が、にやりと笑う。
タンクトップからのぞく腕は無駄なく引き締まっている。
山本は苦笑しながらバーベルを見た。
「お前、これ普段から持ってるだろ……資材とかで。」
「まあな。
俺にとっちゃ仕事も筋トレみたいなもんだ。」
高橋が軽々とダンベルを上げる。
動きに一切の迷いがなく、フォームは教科書のように滑らかだった。
一方の山本は、ベンチに座って腕を震わせていた。
「……やっべ。十回が限界。」
高橋が笑う。
「回数よりフォームだって。体が逃げてる。」
「逃げてるって、説教くさい言い方すんなよ。
俺なんて普段はPCの前で座って仕事してるだけなんだから。」
「筋肉は正直なんだよ。
ごまかしながら上げようとすると、ちゃんとバレる。」
山本はタオルで汗をぬぐいながら息を整えた。
「お前さ、何でそんなに続けられるんだ?
俺、やる気あっても途中で冷めるんだよな。」
高橋は水を飲み、少し考えてから答えた。
「“やる気”でやってるうちは続かねえんだ。
俺の場合、“体が落ち着く”からやってるだけ。」
「落ち着く?」
「ああ。
現場でもそうだけど、重いもん持って、息が乱れて、筋肉が悲鳴を上げてる時って――
余計なことを考えなくて済む。
“頭の摩擦”が消える感じなんだ。」
山本は頷きかけてから、ふと思い出したように笑った。
「でもお前、仕事の時は“重い物なんて持ちたくねえ”って言ってなかったっけ?」
「言ったな。」
高橋は肩をすくめる。
「同じ重さでも、“やらされて持つ”と“自分で持つ”じゃベクトルが違う。
不思議なもんだ。」
「要は“誰のために持つか”で、筋肉の気持ちも変わるってことか。」
山本は静かにうなずき、再びダンベルを握った。
今度は呼吸を合わせながら、ゆっくりと上げていく。
肩の震えが少しだけ落ち着いていた。
「……お、フォームがきれいになってきたな。」
⸻
トレーニングを終えて二人が外に出ると、
青空の下で風が心地よく吹いていた。
高橋が伸びをしながら言う。
「体を動かすと、なんか全部どうでもよくなるな。」
山本が笑った。
「“どうでもいい”って、たぶん一番いい状態だよ。
心が滑らかに動いてるってことだから。」
汗をタオルで拭きながら、二人は階段を上っていく。
二階――心のジムのラウンジでは、朝比奈がノートパソコンを開き、セミナー用のスライドを編集していた。
画面には、「人を動かす理論」というタイトルが表示されている。
高橋が声をかけた。
「お、ちょうどいいじゃん。その“人を動かす”ってテーマ。」
涼子が顔を上げる。
「どうしたの? 二人とも、すごい汗。」
「スポーツジムの方で、ちょっと筋トレしてた。
で、体動かしながら思ったんだ――これ、“人を動かす”話の実例になるぞ。」
涼子が興味深そうに身を乗り出した。
「へえ。どんな気づき?」
高橋がタオルを肩にかけたまま、ゆっくり話し始める。
「俺さ、仕事のときはなるべく重い物持ちたくないんだよ。
でも、ジムじゃ同じ重さをわざわざ持ち上げる。
しかも楽しんでやってる。……不思議だろ?」
涼子は笑いながら言う。
「確かに。でも、どう違うのかって聞かれると難しいわね。」
高橋は少し間を置いて言った。
「つまり、“やらされて持つ”時はセフティが働いてブレーキになるけど、
“自分から持つ”時はライフが動いて快楽になる。
人を動かすって、つまり“目的の向きを変えること”だと思う。」
涼子はペンを取り、ノートに走り書きした。
「面白いわね、それ。
“重い荷物を持つ時、人は嫌々になる。でも、自分で決めて持つ時は誇らしくなる”。
この“ベクトルの反転”を導入に使えば、セミナーの聞き手にも直感で伝わる。」
彼女は勢いよくノートを閉じた。
「この話、使えるわ。“動かない人をどう動かすか”の導入にぴったり。」
高橋が肩をすくめて笑う。
「俺たち、実験台みたいなもんだな。」
「いいじゃない。理論は現場で磨かれるのよ。」
涼子はにやりと笑い、スライドのタイトルを打ち直した。
第1章:やらされる仕事と、やりたくなる運動の違い
― “ベクトルの向き”が変わると、人は動く ―
山本がそれを覗き込みながら言う。
「“動かす理論”が、ほんとに“動いてる”な。」
高橋が笑って拳を軽く合わせた。
「これ、現場発の発見ってやつだな。
……よし、今度は心の筋トレもしてみるか。」
涼子がグラスを掲げた。
「現場の汗が、理論の言葉になる。最高の循環よ。」
窓の外では、午後の日差しがジムのロゴを照らしていた。
「サイジム」――心と体が、再び動きを取り戻す場所。
休日の光の中で、理論が静かに“現実”になり始めていた。
― 居酒屋「彩」
『嫌いを残したまま、好きが増えていく夜』
夜の「彩」。
カウンターの灯りがやわらかく反射し、
奥では山城がドラムの練習パッドを軽く叩いていた。
営業後の静かな時間。常連だけが残っている。
涼子はグラスの縁を指でなぞりながら、
ぼんやりとスープの残りを見つめていた。
「……最近、“好き”とか“嫌い”とか、よく考えるのよね」
隣でスマホをいじっていた理沙が顔を上げた。
「恋バナ?」
「違う違う」
涼子は笑った。
「職場でね、苦手なんだけど、なぜか一目置いてる人がいて。
嫌いとは違うんだけど……なんか複雑なの」
「わかるわー」
理沙は即答して、唐揚げをつまんだ。
「私も山城さん、最初ほんと苦手だったもん」
「え、そうなの?」
「うん。“ざっくりでいいっしょ”みたいな感じがさ。
ちゃんと計らないし、盛り付けも雑。
最初は“この人プロ意識ないな”って思ってた。」
奥でドラムを叩いていた山城が、スティックをくるりと回した。
「聞こえてんぞ。」
「でもね、いつのまにか“まあいいか”ってなってたんだよね」
理沙は笑う。
「たぶん、他のところで“好き”が増えてったんだと思う。
ドラム叩いてるときの真剣さとか、
たまに出す料理の“意外なうまさ”とか。
そういうのを見てるうちに、
“雑”があってもトータルでは好きになってた。」
涼子は小さく笑い、ストローを回した。
「ふふっ。嫌いが減ったというより、好きが上回ったのね。」
「そうそう。嫌いは嫌いのままなんだけど、
“この人のこういうとこ好き”っていうベクトルが増えて、
全体の向きが変わった感じ。」
涼子は頷きながら言った。
「……それ、たぶん“好き”と“嫌い”のベクトルが別軸なんだと思う。
逆方向じゃなくて、そもそも座標が違う。」
「座標?」
「そう。たとえば“性格が合わない”っていう嫌いは横軸だけど、
“仕事ができる”っていう好きは縦軸。
同じ軸で打ち消すんじゃなくて、
別の軸が立ってバランスが変わるの。」
「へぇ……なんか理系っぽい。」
奥から山城が笑いながら口を挟んだ。
「なるほどな。ドラムも同じかも。
苦手なフレーズを無理に消すより、
得意なリズムを増やしたほうが曲全体が締まる。」
涼子はグラスを持ち上げ、にっこり笑った。
「人も同じ。嫌いを減らす努力より、
別軸の“好き”を増やすほうが早い。
つまり――“嫌いを残したまま、好きで上書きする”。」
理沙が笑った。
「それ、仕事でも使えるな。
“嫌いだけど尊敬してる”って言いやすくなるし。」
「うん。“嫌いだけどトータルで好き理論”。」
「ネーミングが軽いのよ。」
三人の笑い声が、夜の店に柔らかく響いた。
そして朝比奈の中には、
“ベクトルの軸”という言葉とともに、
まだ名もない理論の種が静かに芽を出していた。




