セフティ発動の瞬間
― サイジム「セフティ発動の瞬間」
『否定が心を止めるとき ― 白鳥の気づき』
午後のサイジム。
トレーニングフロアに秋の光が差し込み、
マットの上で白鳥は新しい利用者の青年と向かい合っていた。
「今日は無理しなくていい。少し体を動かして、呼吸を感じるだけにしよう。」
そう声をかけると、青年は小さくうなずいた。
だが、その直後、ぽつりとつぶやいた。
「でも……どうせ、自分なんて何やっても続かないから。」
白鳥はその言葉を聞いた瞬間、
空気の密度がわずかに変わるのを感じた。
青年の肩がわずかに硬直し、目の焦点が曖昧になる。
――今、セフティが作動した。
白鳥の頭に、その言葉が浮かんだ。
否定の言葉。
それが外部からでも、内側からでも発せられると、
人の心は反射的に「危険信号」と判断し、
行動のベクトルを止めてしまう。
「それは悪いことじゃないよ。」
白鳥は穏やかに言った。
「心が自分を守ろうとしてるだけだから。」
青年が少し驚いたように顔を上げる。
「でも、その守りが強すぎると、
動くためのエネルギーまで封じちゃうんだ。」
青年は息を吸い、そして少し長く吐いた。
白鳥はその姿を見つめながら、心の中で整理した。
(……鬱って、結局セフティが過剰に、かつ解除されずに働き続けている状態なんだろうな。
でも、そのきっかけにはいくつもパターンがある。
体調の低下、環境の圧、過去の記憶――
その中のひとつに、“否定されたことによるセフティ発動”がある。)
人は否定されると、たとえ一瞬でも、
「これ以上近づくと危ない」と判断してブレーキをかける。
その反射が積み重なれば、心は“動くこと”そのものを危険だと覚えてしまう。
白鳥はゆっくりと言った。
「人ってね、否定されるたびに、少しずつ安全な距離を取ろうとする。
でも、その距離を広げすぎると、
いつのまにか人生そのものから距離を取っちゃうんだ。」
青年は静かにうなずいた。
「……それ、すごく分かる気がします。」
「だから、まずは守ってる自分を責めないこと。
守りの力があるからこそ、また動き出せる。」
白鳥は青年の呼吸に合わせて、マットに手を置いた。
外の風が、天窓の隙間からふっと流れ込む。
(否定は、セフティ発動の一つのトリガーだ。
けど、鬱を生むのは発動そのものじゃない。
それが解除されないまま固まってしまうこと――
それが問題なんだ。)
白鳥は青年と並び、静かに呼吸を合わせた。
一つ、二つ。
そのたびに、青年の肩の力が少しずつ抜けていく。
「……動かなくてもいい。でも、守りっぱなしのままでは疲れちゃう。
だから、少しだけ風を入れよう。」
青年は微かに笑った。
「……はい。」
白鳥も微笑み返す。
──鬱の原因は一つじゃない。
けれど、「否定によるセフティ発動」はその中でも見過ごされやすい要素だ。
心が「危険」と誤認したまま防御を続ける限り、
前へ進むベクトルは眠り続ける。
白鳥は天窓を見上げ、
光の揺らぎを目で追いながら静かに思った。
(ああ……人を動けなくしているのは、
否定された痛みじゃなく、
守ろうとし続けている心の仕組みなんだ。)
『セフティと否定の構造』
夜の「彩」。
静かなBGMの中、カウンターにはいつもの面々が集まっていた。
白鳥はグラスを片手に、昼間サイジムでの出来事を話していた。
「……否定されると、人って一瞬で動きを止める。
今日、実際に目の前で見たんだ。
『どうせ自分なんて』って言った瞬間、
その青年の体から、スイッチが落ちたみたいに力が抜けた。」
涼子が軽く眉を上げた。
「それって、セフティの発動ね。」
白鳥は頷く。
「ああ。あの瞬間、彼の中のLifeやLearnといった推進ベクトルが全部止まった。
危険を察知して、心がブレーキを踏んでるんだ。
その連続が、鬱を形づくってるように思えた。」
西村がメガネを押し上げ、ノートを開いた。
「つまり、鬱=セフティが解除されず、常時オンの状態ってことね。」
「そう。だけど今日のケースで感じたのは、
そのセフティ発動のきっかけが、
否定だったってこと。」
甲斐が腕を組み、興味深そうに言った。
「否定によるセフティ発動……なるほどな。
確かに人間の神経系は、外部からの攻撃だけじゃなく、心理的な否定にも反応する。
脳がそれを危険信号と誤認して、防御モードに入るんだ。」
「まるで筋肉の防御反射ね。」
西村が即座に補足する。
「打撃を受けそうになると、無意識に収縮して守るでしょ。
あれと同じで、否定の言葉が心に当たると、
心の筋肉――つまり行動ベクトルが硬直するの。」
白鳥は笑いながら言った。
「なるほど、『心の防御反射』か。言い得て妙だな。」
甲斐はグラスを回しながら、さらに整理する。
「鬱の原因はもちろん一つじゃない。
体調の低下、社会的圧、ホルモン、睡眠、思考の偏り……
複数の要因が重なって『セフティが解除されない恒常的な状態』を作っている。
だが、否定によるセフティ発動はその中でも極めて典型的なトリガーだ。
誰もが日常的に受けている。」
涼子が静かに頷いた。
「しかも現代はSNSや職場評価で『軽い否定』が常に降り注いでる。
それが小さなセフティ発動を積み重ねて、
気づけば心が動けなくなる人が増えてるのかもしれないわね。」
西村がホワイトボードのペンを取る。
「まとめるとこう。」
ホワイトボードには、三段構造の図が描かれた。
1.外部/内部トリガー:否定、拒絶、比較、羞恥
2.防御反応:危険回避・行動抑制・思考停止
3.結果(慢性化):エネルギーフローの循環停止
西村は説明を続けた。
「『鬱』というのは、この反応層が長期間持続する状態。
否定はあくまでその一つの入り口。」
白鳥はその図を見つめながら、静かに言った。
「……なるほどな。
今日見たあの青年は、否定でトリガーを引いたけど、
たぶん他にもいろんな危険の記憶を抱えてたんだろうな。」
甲斐がうなずく。
「そうだ。否定は入口であって、
根本は心が安全を失ったまま戻れなくなること。
サイサイセオリーで言うなら、セフティの反作用が恒常化した状態だ。」
涼子は静かにグラスを置き、言葉を添えた。
「でも、白鳥の気づきは大きいわ。
否定がトリガーになってる瞬間を生で観察できたのは貴重。
理論にとっても、現場にとっても。」
白鳥は少し照れたように笑う。
「いや、たまたま見えただけだよ。
でも……否定を避けることより、
否定された後に、どう再起動できるかを考えたくなった。」
甲斐が穏やかに笑った。
「それがリジェネ(再生)の研究テーマだな。」
西村が図の右下にもう一本線を引いた。
4.再起動層:
安全な承認によるセフティ解除 \rightarrow 行動ベクトルの再稼働
「これが、サイジムの役割。」
西村が微笑む。
「安全な場所で、否定に反応しない練習をする場所。」
涼子がゆっくり頷く。
「……なるほど。私たちのサイサイセオリーがジムを実験の場に選んだ理由が、ようやく腑に落ちたわ。」
白鳥は笑いながら、グラスを軽く掲げた。
「じゃあ、否定を受けても倒れない筋トレだな。」
甲斐と西村も笑い、涼子が静かにグラスを合わせた。
──否定は、心を止めるトリガーのひとつ。
けれど、それを理解すれば、止まった心を再び動かす設計もできる。
サイサイセオリーは、その再起動の筋肉を鍛える学問なのだ。




