学会での討論会
― 学会発表「サイサイセオリー」討論会
『心を動かす物理』
都内の大学講堂。
壇上には三人の若手登壇者が並んでいた。
西村沙耶香(理論担当)、白鳥慎一(行動応用担当)、朝比奈涼子(実践心理・社会応用)。
背後のスクリーンには五本の矢印。
「Life/Safety/Unite/Rank/Learn」――
タイトルは、“Psy-Sci Theory ― 人間行動のエネルギー方程式”。
会場には数百人の研究者。
壇上の向かいには、討論パネルとして三人の教授が座っている。
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一人目:臨床心理学教授(重鎮)
「興味深い理論ですね。
ただ、“ライフ”“ランク”などの要素は抽象的です。
具体的に、どう測定するのですか? 質問紙? 生理指標? 主観評価?」
西村がマイクを握る。
「測定対象は“エネルギー”そのものではありません。
私たちは“摩擦”――すなわち、感情変化による行動抵抗を観測します。
“不安”や“後悔”はSafetyベクトルの抵抗値、
“嫉妬”や“羞恥”はRankベクトルの過負荷として扱います。」
教授が眉をひそめる。
「……つまり力を直接測るのではなく、“痕跡”を読む、と?」
白鳥が静かにマイクを取った。
「先生、物理でもそうですよね。
壁に残った傷を見れば、どんな力が加わったか推定できる。
心理も同じです。摩擦痕を読めば、心のベクトルが見えてくるんです。」
会場に軽いざわめき。教授はわずかに頷いた。
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二人目:認知科学教授(AI研究寄り)
「行動をベクトルとして扱う発想は新しい。
ただ、変数が多すぎる印象です。
機械学習の報酬モデルとはどう整合しますか?」
西村がタブレットを操作し、PsyGymの行動データを映し出す。
「私たちは“報酬最大化”の一次元的な枠を超えたいんです。
行動価値は単なる“得点”ではなく、
“安心 × 共感 × 希望”の合成波として定義します。
人は結果より、“過程で得た安全”を報酬とする。」
教授が口を開きかけたところで、白鳥が続けた。
「AIの強化学習は“勝つこと”を学びますが、
人は“折れずに続ける”ことを学ぶ。
その“続ける”を測れる理論が、ようやく出てきただけです。」
最前列の若手研究員が小声でつぶやいた。
「……それ、社会的強化学習の拡張に使えるかも。」
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三人目:社会心理・哲学系教授(批判派)
「あなた方の理論は、人間を五つのエネルギーに還元している。
だが文化や社会構造の差は?
“普遍構造”を語ること自体、時代錯誤では?」
会場が少し緊張する。
西村が静かに答える。
「文化や価値観は確かに多様です。
でも“動機の方向”――つまりベクトルは、共通なんです。
怒る、守る、学ぶ、つながる、認められたい。
これはどの社会でも観察できる人間のエネルギー方向です。
違うのは“摩擦”のかかり方だけ。」
白鳥が頷きながら補足する。
「日本人は“恥”で止まり、欧米人は“誇り”で動く。
でも、どっちも“Rank”のベクトル。
方向が逆でも、根っこの力は同じなんです。」
教授が腕を組み、静かに聞いている。
そのとき、朝比奈が一歩前へ出た。
「先生、もしお許しいただけるなら――現場の声を少しだけ。」
司会がうなずき、マイクを渡す。
涼子は落ち着いた声で語り始めた。
「私は“サイジム”という心のトレーニング施設を運営しています。
鬱や不登校、キャリア喪失の方々が来られます。
その方々を見ていると、文化や立場より先に、
“動けない”という一点で全員が共通しています。
でも、その“止まり方”には方向がある。
誰かに否定された安全ベクトルが反転したり、
承認が過剰になってRankが暴走したり。
それを“力”として見れば、心の動きが整理できる。
私はこの理論を、現場で人を救う“取扱説明書”として使っています。」
一瞬の静寂。
先ほど批判的だった教授が、わずかに微笑した。
「……なるほど。現場で使えているなら、それはもう“理論”ですね。」
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司会者が時計を見て、静かに締めくくった。
「これほど会場が静まった発表は久しぶりです。
最後に、登壇者の皆さんから一言ずつお願いします。」
白鳥が軽くマイクを取る。
「行動理論は“観察”から始まります。
でも人を理解するには、“痛み”を観察しないといけない。
俺たちは、それを“摩擦”って呼びます。」
西村が続けた。
「心理学は“心を癒やす学問”と言われます。
でも私は、“心を動かす物理”でもあると思うんです。
感情には方向がある。
その方向を理解できれば、人はもう少し優しく動けるはずです。」
そして最後に、涼子が穏やかに言葉を添えた。
「理論は現場で試され、現場は理論で救われる。
私たちは、その“往復”を人間らしい営みだと考えています。
誰かが止まったとき、そっとベクトルを添えられるように。」
一瞬の沈黙。
後方で一人の学生が、小さく拍手した。
それを皮切りに、点のような拍手が連鎖し、
やがてホール全体が静かな拍手に包まれた。
白鳥はその音の中で、隣の西村と涼子を見た。
二人の横顔には――
“思想”でも“学問”でもなく、
確かに人を動かすエネルギーが宿っていた。
――学会討論会の熱気がまだ残る夜。
「彩」のカウンターには、おなじみの顔ぶれが揃っていた。
グラスの氷がカランと鳴る。
広中がゆっくりと口を開いた。
「……いやぁ、正直、感動したよ。
あれだけの教授陣を前に堂々と持論を展開して、しかも論破寸前まで追い込んだ。
サイサイセオリー、間違いなく“時代を動かす理論”だ。」
白鳥が照れくさそうに笑い、西村はグラスを持ち上げながら言う。
「重鎮たちも、まさか“人の欲求をベクトルで説明される”なんて思ってなかったでしょうね。」
広中は軽く笑い、グラスを傾けた。
「……でもな、最初に俺がこの店に来た時、おまえらが“サイサイセオリー”だの“承認空間”だの言ってた時は、正直、こいつら何言ってんだって思ってたよ。
頭のいい連中の遊びかと思った。
でも――あの時、酒が入って、俺の“セフティ”が緩んだんだろうな。
防御が外れた瞬間、妙にスッと入ってきた。
『ああ、こいつら本気で人間を解こうとしてる』ってな。」
白鳥が笑って肩をすくめる。
「“セフティが緩む”って表現、いいな。酔いは理論の潤滑油か。」
広中が続ける。
「今日の学会を見てて思ったよ。
俺が“何言ってんだ”って思ってた時の教授たちも、きっと同じ顔してた。
でも、あの会場の空気……最後にはみんな、少しだけ“防御”が解けてたな。」
涼子が頷く。
「そうね。理論は伝えるものじゃなく、溶け込ませるもの。
“セフティ”が緩む瞬間にしか、人は新しい考えを受け入れられないのよ。」
西村が静かにグラスを回した。
「理論は理解じゃなく、体験ね。今日の反応でそれが証明された気がする。」
広中はグラスを掲げた。
「だから次は、俺の会社で“実験”してみよう。
理論が本当に人を動かすのか、現場で確かめてやる。
あの時と同じように、社員たちの“セフティ”を緩める場を作ってな。」
涼子が微笑み、言葉を継ぐ。
「そうね。サイサイセオリーはまだ完成なんて言えない。
生活にも、経済にも、教育にも――まだまだ進化できる理論。
今日の討論も、その進化のためのデータの一つだわ。」
高橋がギターを手に取り、静かにブルースを奏でる。
引きずるような、ハスキーで切ない歌声がグラスの音と混ざり、夜の空気を包み込む。
山城が厨房から顔を出して笑った。
「これサービスだ。エビマヨ作ったから、このポテトにつけて試食してくれ。」
理沙が吹き出す。
「ちょ、ただのエビ入りマヨネーズじゃん!」
店内に笑いが広がり、
その夜、「彩」には再び“理論と人間の体温”が混ざり合う空気が流れていた。
──防御を解き、本音が交わる場所。
サイサイセオリーは、そこで進化していく。




