学会への挑戦
秋の学会会場。
東京国際フォーラムのホールには、研究者たちのざわめきが満ちていた。
スクリーンの上には新しいセッションのタイトルが映し出されている。
「人間行動におけるベクトル構造の経済的応用」
発表者:甲斐修一(社会経済学)・西村沙耶香(行動構造学)・朝比奈涼子(実践心理学)
ステージ脇の控室で、西村は原稿を何度も見返していた。
手の中のマイクが、かすかに震えている。
「緊張してるか?」
甲斐が隣でコーヒーをすすりながら聞く。
「正直、手が冷たいです。
心理学者に否定され、経済学者にも笑われた理論ですから。」
甲斐は口角を上げた。
「だからこそ、今日の空気を変える。
“理論は笑われてから始まる”って言っただろ。」
背後のモニターに映る準備画面。
そこには、朝比奈の書いた序文の一節が映っていた。
“行動とは、理性の選択ではなく、心の流体である。
流れを止めるのは恐怖、流れを起こすのは承認。”
西村は小さく笑い、頷いた。
⸻
ステージに立つ。
ライトが眩しい。
数百人の研究者がノートパソコンを開き、資料を手にしている。
ざわめきが静まり、西村の声がホールに響いた。
「――私たちは、人間の行動を“ベクトルの力学”として再定義しました。」
スライドが切り替わる。
“ライフ・セフティ・ユナイト・ランク・ラーニン”。
五つの矢印が、円環を描くように回転している。
「これらは心理的欲求ではなく、“行動エネルギー”として捉えます。
そして、それぞれの強度と摩擦が、“幸福流量”を形成する。」
ホールのあちこちでペンが走る音がした。
甲斐がステージに歩み出る。
「経済学はこれまで、効用や満足度を“結果”として測ってきた。
だがサイサイセオリーでは、“動機のベクトル差”をモデル化する。
つまり、人間の行動は“選好”ではなく“方向”によって説明できる。」
スクリーンには数式が映る。
幸福流量=Σ(推進ベクトル − セフティ反作用) × リジェネ係数。
甲斐の声が落ち着いた調子で続く。
「この式を用いると、金銭的報酬だけで説明できなかった労働満足度の差が、
実際の企業データと一致することが確認できました。」
会場の空気がわずかに変わった。
後方の席で、誰かが「……一致?」と呟く。
西村がグラフを映し出す。
「こちらは製造業の200人を対象とした実証データです。
“セフティ反作用”が低い職場ほど、金銭報酬に対する満足度が有意に高い。
つまり、“安全と挑戦のバランス”こそが幸福流量の鍵となります。」
ざわめきが広がる。
質問者の手がいくつも上がった。
「心理的ベクトルを数値化した根拠は?」
「文化差は考慮したのか?」
「これは行動経済の新モデルとして扱えるのか?」
甲斐は一つひとつ、丁寧に答えた。
論理は滑らかで、確信に満ちている。
そして最後のスライド。
結論:幸福とは安定ではなく、摩擦の中での流れである。
会場が静まり返る。
数秒の沈黙のあと――
一人の老教授が拍手をした。
その音が連鎖し、次々に広がっていく。
拍手の波が止まらない。
観客席の後ろで、白鳥と涼子がそっと目を合わせ、微笑んだ。
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発表後。
控室に戻ると、甲斐がゆっくりとコートを羽織った。
「……通ったな。」
「え?」
「査読委員から、“新分野として再審査対象”に昇格だ。
拒否じゃない。“認定保留”――つまり、学問として正式に検討される。」
西村の手が口元を覆う。
「……本当に、認められたんですね。」
甲斐は微笑む。
「認められたのは理論じゃない。
動いた“心”だ。」
彼はノートを開き、
涼子の名が載る論文の末尾を指で軽く叩いた。
共著者:甲斐修一/西村沙耶香/朝比奈涼子(実践心理・行動応用)
「お前が迷わずに書いたあの一文が効いた。
“幸福とは停止ではなく、流動である”――
あれで“思想”が“科学”になった。」
西村は涙をこぼしながら頷いた。
「……甲斐さん、信じてくれてありがとうございました。」
「信じたのは理論じゃない。
“信じる力”が理論を現実に変えると知ってたからだ。」
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夜。
報告を受けた白鳥たちは「彩」のカウンターに集まっていた。
涼子がワインを掲げる。
「これでサイサイセオリー、正式に学会デビューね。」
白鳥がグラスを合わせながら言う。
「理論が認められたってことは、次は“応用”だ。
サイジムも、“心のトレーニング施設”から“社会実験場”に進化できる。」
西村が少し照れたように笑った。
「理論が世に出るって、こんなに怖くて嬉しいんですね。」
甲斐がグラスを傾けた。
「怖さはセフティ。嬉しさはライフ。
両方が動いてるうちは、人間として正しい。」
白鳥が笑う。
「なら、俺たちの理論も人間らしいってことだな。」
涼子は少しだけ、グラスを見つめた。
自分の名前が論文に刻まれた感触――
それは誇りよりも、責任に近い重みだった。
「……肩書きがあるほど、人のセフティは外れる。
でも本当に大事なのは、その先に何を伝えるか、ね。」
白鳥がにやりと笑う。
「おまえに言っても釈迦に説法だな。」
涼子は笑ってグラスを掲げた。
「じゃあ、“釈迦に乾杯”。」
カラン――。
氷の音が、静かな祝福の鐘のように鳴り響いた。




