心理学者加納
― 大学研究室
『心理学者・加納を紹介しよう』
翌日、午後の研究棟。
窓の外では銀杏の葉が風に舞い、
甲斐のデスクには学会要旨のプリントとサイサイセオリーのメモが散らばっていた。
ノックの音。
「どうぞ」
扉が開き、西村が入ってくる。
いつものラップトップを小脇に抱え、
目の下にうっすらクマを作っていた。
「徹夜したのか?」
「はい。サイジムで白鳥さんが言ってた“セフティ発動”の図を再構成してました。
反作用ベクトルとしてのセフティを“心理的防御機構”に置き換えると、
既存の鬱理論とも整合性が取れそうなんです。」
甲斐は嬉しそうに頷いた。
「なるほど。いい視点だな。
それなら一度、専門の心理学者に見てもらおう。」
「心理学者……ですか?」
「うん。私の知り合いで加納教授という人がいる。
臨床心理の第一線で、最近は“防衛反応と感情抑制”を神経学的に研究してる。
サイサイセオリーの“セフティ”の概念とは近い部分がある。」
西村の目が輝いた。
「えっ、それはすごいですね……!」
甲斐は椅子を回し、書棚から一冊の雑誌を取り出した。
「これが彼の論文だ。“持続的防御反応における意識的回避と抑制機構”。
文章はやや硬いが、要するに“人が安全を確保するために意図的に鈍くなる”って話だ。
サイサイの“セフティ発動による静止”と理屈が重なる。」
西村はページをめくりながら、小さく唸った。
「なるほど……“人がわざと自分を鈍らせる”ってことですか。」
「そう。加納はそのメカニズムを“安全化の誤作動”と呼んでいる。
白鳥の見立てと同じだ。
ただ、あの人は理屈には強いが、独自理論には厳しい。
君の数式や図解を見せたら、きっと細かいところまで突っ込まれるぞ。」
西村は少し緊張した表情を見せた。
「やっぱり、そうですよね……。
でも、甲斐先生が紹介してくださるなら、挑戦してみたいです。」
甲斐は穏やかに笑った。
「もちろん。こっちで橋渡しする。
ただ、ひとつだけ覚えておけ。」
「なんですか?」
「学問の世界では、“理屈の新しさ”だけでは評価されない。
“どの文脈に接続できるか”が重要なんだ。
君のベクトル図は優れているが、
それを“どの心理理論の延長線上に置くか”を、加納は必ず聞くだろう。」
西村は真剣な表情で頷く。
「はい。サイサイセオリーを完全に独立した枠で出すより、
既存の防衛機制理論と整合させて出すつもりです。」
「それでいい。」
甲斐は満足げに笑った。
「それに、朝比奈も今度企業でセミナーをするらしい。
現場と理論、両輪で動かせばサイサイは本物になる。」
西村は少し照れながら言った。
「……まるで本当の学派みたいですね。」
「学派にするんだよ。」
甲斐は淡々と言った。
「“居酒屋発の行動科学”――面白いじゃないか。」
そう言って立ち上がると、
彼はスケジュール帳を開き、ペンを走らせた。
「よし、来週の木曜。
加納教授に時間を取ってもらおう。
紹介するのは――西村沙耶香、そして“サイサイセオリー研究会”。」
西村は思わず笑みを漏らした。
「……正式な名前、ついにできたんですね。」
「名前があると、理屈は急に重みを増す。」
甲斐は少しニヤリとして付け加えた。
「学問もブランドだからな。」
研究室の窓の外で、
夕方の風が銀杏の葉を舞い上げた。
──サイサイセオリー、学会へ。
その小さな一歩が、静かに始まっていた。
午後のキャンパス。
大学の研究棟の一室で、白衣姿の心理学者・加納が資料をめくっていた。
机の向かいには西村と甲斐。
二人の間には、“サイサイセオリー”と書かれた分厚い原稿が置かれている。
加納が口を開いた。
「……理論の着想は面白い。
“ベクトル心理”という切り口も独創的だ。
ただ、これは心理学では扱えない。
概念が哲学的すぎるし、検証手法が曖昧だ。」
西村が小さく息をのむ。
「でも、私たちはすでに“ベクトル測定”で初期データを取ってます。
脳波や皮膚電位の変化も記録して――」
「それは“反応”であって、“ベクトル”ではない。」
加納は冷静に言葉を切った。
「心理学では、“定義できない力”を研究対象にしないんです。」
室内の空気が少し張りつめた。
甲斐は腕を組んだまま、静かにそのやりとりを見ていた。
加納が資料を閉じる。
「悪いが、私は降りるよ。
これはまだ“思想”の段階だ。
学問の体をなしていない。」
椅子が軽く軋み、加納は立ち上がる。
扉が閉まる音が響き、部屋には静寂が残った。
⸻
西村は視線を落としたまま呟いた。
「やっぱり、無理なんでしょうか……。
理論を証明できる分野がない。」
甲斐は少し笑った。
「分野がないなら、作ればいい。
“心理経済学”だろうと“行動物理学”だろうと、呼び方は後からついてくる。」
「でも、心理学者からすれば……」
「彼らが正しいんじゃない。
彼らは“確立された範囲で正しい”んだ。」
甲斐は書類の束を手に取り、軽く叩いた。
「この理論はまだ若い。
だが、社会を説明できる可能性がある。
ならば――社会経済学の枠から立証する。」
西村が顔を上げる。
「……社会経済学、ですか?」
「ああ。
経済の根底にあるのは“欲求”と“選択”だ。
サイサイセオリーのベクトル構造は、それを定量化できる。
ライフ、セフティ、ランク――
それらは行動経済の“非合理的選択”の裏にある動機の形だ。」
「でも、心理を経済で扱うなんて……学会は笑うかもしれません。」
「笑わせておけ。」
甲斐の声は穏やかだった。
「理論は、笑われてから始まる。
学者が守るのは“体系”であって、“真実”じゃない。」
西村はしばらく黙り、やがてペンを取った。
「……やりましょう。
心理ではなく、“行動モデル”として立証する。
“幸福の流量”を定義できれば、社会経済学として成立するはず。」
甲斐が頷く。
「よし。俺がデータ整理と統計を引き受ける。
お前は理論の骨格を整えてくれ。
“感情を流体として扱う”という発想、あれは使える。」
西村が少し笑った。
「教授なのに、ずいぶんロックな言い方しますね。」
「教授じゃない。“同志”だ。」
甲斐は穏やかに笑い、ファイルを閉じた。
「信じるに足る理論なら、俺は賭ける。
たとえ学会が認めなくても、
社会が先に動く理論というものもある。」
⸻
夜。
二人は研究室に灯を残したまま、ホワイトボードの前に立っていた。
ベクトル、摩擦、幸福流量――
数式が入り混じった線の上に、
一筋の光が伸びていた。
白鳥の言葉が、西村の脳裏に蘇る。
「理論は正しいかじゃない。動くかどうかだ。」
ペンを握る手が、少しだけ強くなった。
『論文に名を連ねろ』
閉店後の「彩」。
片付けを終えたカウンターの上に、
西村の描いたホワイトボードの図がまだ残っていた。
「否定 → セフティ発動 → 鬱 → リジェネ」
白いマーカーの線が、光に反射してうっすら光っている。
白鳥はその図を眺めながら、
グラスの底を軽く回した。
「なあ、朝比奈。」
「ん?」
「甲斐さん、あの論文まとめるって言ってたろ。
おまえの名前、筆頭に入れてもらえよ。」
涼子は驚いたように振り向く。
「え、私が? あれは学術寄りよ?
私は現場とセミナー担当で十分だと思ってるけど。」
白鳥は笑った。
「いや、そこが違うんだよ。」
彼はグラスを置いて、カウンター越しに少し身を乗り出す。
「セミナーをやるおまえの肩書きが高ければ高いほど、
客――いや、“お金を払う側”が得した気になれるんだ。
人ってそういうもんだろ?」
涼子は苦笑した。
「つまり、“おまえが偉いほどお客が喜ぶ”理論?」
「そう。承認の経済だ。」
白鳥はあっさり言い切る。
「セミナーって、内容の良し悪しだけじゃない。
“誰が言ってるか”のランクベクトルが強く作用する。
そのベクトルを利用するのも、サイサイセオリーの一部だろ?」
涼子は少し黙って、ゆっくりグラスを傾けた。
「……それをあなたが言うのが面白いわね。
昔は“肩書きなんて意味がない”って言ってたじゃない。」
白鳥は肩をすくめる。
「まあな。でもあのときは負け惜しみなんだろう。
今は少し上から見える分、仕組みが分かった。
“上に見えるもの”は、それ自体が安全装置になる。
客は“この人が言うなら間違いない”ってセフティをオフにできるんだ。」
涼子は小さく目を細めた。
「なるほど。“権威のセフティ解除効果”ね。」
「そうそう。」
白鳥は笑う。
「だからさ、あの論文におまえの名前を載せとけ。
教授とか准教授とかの横に“朝比奈涼子(心理実践士)”って入るだけで、
世間の信頼ベクトルが一気に変わる。
セミナーの集客も、スポンサーの反応も違う。」
涼子は少し呆れたように笑った。
「相変わらず現実主義ね、白鳥。」
「おまえに言っても釈迦に説法かもな。
でも、おまえはもう“語る側”じゃなくて“体系を作る側”なんだよ。」
その言葉に、涼子は静かに息を吐いた。
「……あんた、ほんと上手く言うわね。」
「事実を言ってるだけさ。
サイサイセオリーはもう飲み屋の話じゃなくなった。
“肩書き”っていうベクトルも、利用すべきフェーズに来てる。」
涼子はゆっくり頷いた。
「わかった。甲斐さんに連絡してみる。
……ただし、“商売上手な白鳥が説得した”って名も載せとくわよ。」
白鳥は笑いながらグラスを掲げた。
「そいつは光栄だな。」
カウンターの奥では、山城が食器を拭きながらつぶやいた。
「おまえらの話、たまに経営会議よりリアルだな。」
「そりゃそうだ。」白鳥が笑う。
「こっちは“心の企業”だ。」




