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禁煙患者と鬱患者

「“吸わない”ができない夜」


夜のサイジム。

カウンターには今日の記録用タブレットが整然と並び、登録者数はすでに三百五十名を超えていた。

西村の論文データも順調に更新され、静かな達成感が店内に漂っている。


「こっちは順風満帆ね。」

涼子がコーヒーを持ってきて微笑んだ。


白鳥は画面を見つめたまま頷く。

「理論も、ようやく現場で証明されてきた。

 今夜は“禁煙希望”の男性が来る。依存の典型例らしい。」



ドアが静かに開いた。

スーツの胸ポケットから、タバコの箱が少し覗いている。

男は四十代後半。目の奥に、長年の疲れが沈んでいた。


「田野です。……予約してました。」


白鳥が穏やかに迎える。

「ようこそ、サイジムへ。

 今日は“禁煙プログラム”の初回ですね。」


田野は苦笑を浮かべた。

「禁煙っていうより、“やめたいけど吸っちまう”ってやつです。

 仕事のストレスで……気づいたら火をつけてる。」



西村がタブレットを操作しながら尋ねた。

「禁煙を続けようとすると、どんな感覚になりますか?」


「胸がモヤモヤして、落ち着かなくなる。

 “吸いたい”というより、“吸わないのが怖い”感じです。」


西村が静かに頷いた。

「まさにそこです。“吸わない不安”。

 依存症の本質は、“吸う快楽”ではなく、“吸わない不安”なんです。」


白鳥が言葉を継ぐ。

「本来、ライフのベクトル(快楽へ進む力)と、

 セフティのベクトル(危険を避ける力)は釣り合っている。

 けれど依存症では、セフティが“吸わないこと”を危険と誤認してしまう。」


田野が眉をひそめた。

「危険……? 吸わない方が健康的なのに?」


「脳は“安心を奪われる”ことを危険と判断するんです。」

西村の声は穏やかだった。

「つまり依存症とは、“吸わない”という行為ができない状態。

 吸わないこと自体が“不安”として反作用を起こしている。」


田野は目を伏せた。

「……たしかに、手が勝手に動く。

 “吸わない方が落ち着かない”なんて、変な話だ。」


白鳥が笑みを浮かべた。

「でも理にかなっている。

 “吸わない”という行為に対して、セフティが過剰に警報を鳴らしているんだ。」



――偽物の安心から、本物の安心へ。


西村が紙を取り出し、中央に円を描いた。そこから五本の矢印が伸びていく。

「この円が“心の基点”です。

 いま、あなたのセフティは赤い矢印の方向に過剰反応している。

 “吸わない不安”を抑えるために、タバコを使っている。

 つまり、タバコは――“偽物の安心装置”なんです。」


田野は苦く笑った。

「偽物の安心……確かに、吸っても落ち着くのはほんの数分だ。」


「そう。依存症の回復とは、“吸わない不安”を別の方法で鎮めること。

 快楽を断つことではなく、“安心の源”をすり替えることなんです。」


涼子が紙コップを差し出した。豆乳の香りがやわらかく漂う。

「これ、“セフティ・リリース”。飲みながら深呼吸をしてみてください。」


田野はゆっくりと息を吸い、吐いた。

肩の力が少し抜けていく。

「……不思議だな。吸ってないのに、落ち着く。」


西村が微笑む。

「それが“本来の安心”です。

 呼吸という行為で、セフティを内側からリジェネ(回復)させている。

 外部刺激ではなく、自己回復の回路を使っているんです。」



数日後。

再来した田野は、口元にわずかな笑みを浮かべていた。


「吸いたい時はあるけど、吸わない時間が怖くなくなってきた。

 “吸わない不安”が薄まってきた感じです。」


白鳥がタブレットを見ながら頷く。

「セフティ反応値、二〇%減――いい傾向だ。」


「“吸わない”って、こんなに難しいと思ってたけど……

 いまは、できるようになるのが嬉しい。」


西村が笑った。

「それが回復の定義です。

 依存症とは、“吸わない”ができない状態。

 だから回復とは、“吸わない安心”を手に入れることなんです。」


田野は深くうなずいた。

「……今夜は、煙のない空気がうまい気がします。」


涼子が微笑み、白鳥がグラスを掲げた。

「ようこそ、サイジム卒業生第一号。」



「止まったベクトル」


昼下がりのサイジム。

秋の光がガラス越しに床を横切り、フロアには時間が止まったような静けさがあった。

白鳥がカウンターを磨いていると、入り口のチャイムが鳴った。


入ってきたのは、母親に肩を支えられた若い男性だった。

二十代前半。フードを深くかぶり、視線は床から一度も上がらない。


受付にいた涼子が柔らかく声をかけた。

「ようこそ、サイジムへ。初めてのご利用ですね。」


母親が小さく頭を下げる。

「息子が……最近ずっと、家から出られなくて。

 お医者さんに勧められて、こちらに……。」


白鳥が椅子を引き、静かに促した。

「どうぞ。ここでは“話すだけのトレーニング”から始められます。」


若者は無言のまま椅子の端に腰を下ろした。

肩は小刻みに揺れ、両手は膝の上で固く組まれている。



少しの沈黙のあと、西村が隣に腰を下ろした。

ノートPCを開き、穏やかに問いかける。

「最近、一番つらいと感じた瞬間はありますか?」


若者はしばらく口を開けなかったが、やがてかすれた声を絞り出した。

「……何も……できないんです。

 起きて、スマホ見て、寝て。

 仕事もできないし……何も変えられない。」


西村は頷いた。

「“変えられない”という感覚は、セフティが強く働いている状態です。

 あなたの心が、“動くこと=危険”と認識している。」


「危険……?」


「ええ。」

西村は画面に円グラフを映した。

「セフティが強いと、脳は“現状維持こそ安全”だと判断します。

 だから、“動こうとするベクトル”を全部、打ち消してしまうんです。」


母親が小さく息をのむ。

白鳥がやわらかく補足した。

「でも、それは壊れているわけじゃない。

 “守りすぎている”だけなんです。

 本来は生きるための仕組みなんですよ。」


若者の肩がわずかに動いた。

目線はまだ下を向いたままだが、眉の奥に“聴いている”気配が宿っていた。


西村が静かに言葉を重ねる。

「セフティは、ライフを守るための反作用。

 あなたの中の“ライフ”が、少し疲れているんです。

 動けない自分を責める必要はありません。

 まずは、“何もしない”を許すところから始めましょう。」


涼子がカウンター越しに温かいドリンクを差し出した。

「これ、“ライフ・リジェネ”ドリンクです。飲むだけでいいんです。

 今日のトレーニングはそれで完了です。」


若者はおそるおそるカップを受け取り、一口飲んだ。

少し甘くて、少し温かい。

その瞬間、肩の力がほんのわずかに抜けた。



帰り際、母親が深く頭を下げた。

「今日は……本当にありがとうございました。」


白鳥が微笑む。

「また“来ようかな”と思ったときに来てください。

 “来ようかな”が、すでに一歩ですから。」


ドアのチャイムが鳴り、外の光が彼の背中をやさしく照らした。


西村がデータ画面を見つめ、小さくつぶやく。

「セフティ反応はまだ強いけど……

 ライフの波が、少しだけ戻り始めている。」


白鳥が頷いた。

「“吸わない不安”も、“動けない不安”も同じだ。

 どちらも、“止まることを怖がる心”がつくる摩擦だな。」


そのとき、カウンターの奥から武田が姿を見せた。

「焦らなくていい。

 動かない時間も、“エネルギーを溜める行動”の一つだ。」


カラン――。

グラスの氷が澄んだ音を立てた。


外では、風がゆっくりと夜を運んでいた。

その流れの中で、サイジムの灯が小さく脈打つように揺れていた。


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