サイジム始動
夕方のサイジム。
まだプレオープンの香りが残る空間に、蛍光灯が柔らかく反射していた。
壁際では「ベクトル測定モニター」が淡い光を放ち、
中央のカウンターでは白鳥がデータを整理していた。
ガチャ、と重い扉が開いた。
入ってきたのは、スーツの上着を肩にかけた六十代ほどの男性。
顔にはうっすらと疲れが刻まれ、眉間には深いシワ。
「……ここ、何だって?“心のジム”? 胡散臭い名前だな。」
受付にいた涼子が笑顔で迎える。
「ようこそ、サイジムへ。当ジムはAIを駆使した独自のシステムで、初回は“ベクトル診断”からになります。」
男は鼻で笑った。
「AI診断ねぇ。どうせ若い連中が『ポジティブになりましょう』とか言うんだろ。
俺はな、そういうのはもう散々やってきたんだよ。」
白鳥がゆっくりとカウンターから立ち上がった。
「お疲れのようですね。どうぞ、こちらへ。五分だけ話を聞かせてください。」
男は渋々椅子に腰を下ろした。
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「最近、何か“面倒だな”と思うことが増えませんか?」と白鳥。
「そりゃあ、何でも面倒だよ。
若い奴は言うこと聞かねえし、会社じゃ肩叩かれて、
家帰りゃ妻に健康診断行けって小言だ。」
白鳥は笑いもせず、淡々と聞いていた。
机の上のタブレットには、赤いゲージがじわりと上がっていく。
「なるほど。セフティ反応、強めですね。」
「何だそれは。」
「“安全を守る力”が強すぎる状態です。
たとえば――新しいことを始めようとするたびに、
“どうせ無駄だ”“失敗する”とブレーキがかかる。」
「そりゃあ、失敗したくないだけだ。」
「それがセフティの仕事です。
でも今は、ブレーキが“過剰反応”してます。」
男は腕を組んで顔を背けた。
「……そんなもん、直せるのか。」
西村が後ろから声をかけた。
「直すというより、“調律”ですね。
セフティが強すぎると、他のベクトル――ライフやランクやユナイト――の音が消えてしまうんです。」
男が眉をひそめる。
「音?」
「はい。たとえば――」
西村はそっとモニターをタップした。
画面に表示されたグラフには、波のように揺れる五本のライン。
そのうち一番太い赤線が“セフティ”だった。
「この赤い波が今のあなた。
“危険かもしれない”という信号が、常に最大で鳴り続けている。
だから他の音――“やってみたい”“関わりたい”――が聞こえなくなっている。」
男は黙り込んだ。
目を細め、グラフをじっと見つめている。
ふと、ため息が漏れた。
「……たしかにな。最近、何を見ても腹が立つんだ。
部下が笑ってるだけで“何がおかしい”って思ってた。」
白鳥が小さく頷いた。
「それは“安全を守るための怒り”です。
自分を傷つけないように、外を拒む反作用。
でも――それが続くと、心の筋肉が固まる。」
涼子がそっと差し出した紙カップ。
「これ、“初回トレーニング”のドリンクです。
豆乳ベースの“セフティ・リリース”。飲むと少しだけ緩みますよ。」
男は戸惑いながらも受け取る。
一口飲むと、眉間のシワがわずかにほどけた。
「……悪くないな。」
白鳥が言った。
「ここでは、怒りも不安も“筋肉”として扱います。
固くなって動けない筋肉を、少しずつほぐしていく。
今日はその第一歩です。」
男はカップを置き、眉をしかめた。
「セフティってのはまあ……言われてみればわからんでもない。
でもよ、他の“ベクトル”とやらは何を基準にしてんだ?
好きとか承認とか、曖昧すぎる。
……正直、胡散臭いな。」
白鳥は否定もせず、静かにうなずいた。
「そう言われるのが普通ですよ。
“心を数値化する”なんて、最初は誰でもそう思う。
ただ――ここでは“正しい”かどうかじゃなく、“動いたかどうか”を見ています。」
男は鼻を鳴らす。
「動いた、ねぇ。」
西村がモニターを指さした。
「ここに“ベクトル揺度”という項目があります。
これは数値が上がったり下がったりすることで、“心が動いている”ことを示す。
どんな方向でも構いません。
セフティが強すぎる人は、他のベクトルが“揺れなく”なるんです。」
男が首をひねる。
「揺れ……って、何を見てんだ?」
「呼吸のリズム、語彙の変化、目線の動き、声の高さ。
“生きてる人間”は、常に何かしらの方向に微妙に傾いている。
それを私たちは“ベクトル”と呼んでいます。」
西村の声は科学者というより、静かなピアノのようだった。
「あなたが“胡散臭い”と思うのも、実は正常なセフティ反応なんです。
知らない理屈に対して、危険信号が出る。
でも、もし少しでも“自分の中に引っかかった”なら――
それはもう別のベクトルが動いている証拠です。」
男はしばらく黙り、タブレットの波形を見つめた。
赤い線が少しだけ下がり、青と緑の線がわずかに揺れ始めている。
「……ふん。要するに、理屈よりも“動き”で見るってことか。」
「ええ。」白鳥が微笑む。
「人の心は、言葉より先に動きます。
私たちが扱っているのは“理屈”じゃなく、“方向”なんです。」
男は腕を組み直し、少しだけ口元を緩めた。
「……まあ、話の作り方は上手いな。」
「上手い話に聞こえたなら、それも良い兆候です。」
西村が笑った。
「“興味を持つ”というのは、ユナイトが反応している証拠ですから。」
男は吹き出した。
「また出たよ、難しい言葉。……でもまあ、
“腹が立たなくなってる”のは事実だ。」
白鳥がうなずく。
「セフティが整い始めると、怒りの波が小さくなる。
その代わりに、“理解しよう”というラーニンが動き始めるんです。」
男は立ち上がりながら言った。
「ふーん。まあ、今日は話を聞いただけだが……
次は、“本当に動くか”見せてもらおうか。」
「ぜひ。」
白鳥が軽く会釈した。
「理論を疑ってもいい。でも、“動いた自分”は疑わないでください。」
ドアの鈴が鳴り、男は外へ出た。
外気に触れると、少しだけ肩の力が抜けた。
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ドアの鈴が鳴り、
外の風が少しだけ柔らかく吹き込んだ。
涼子が笑った。
「“怒り”が“安心”に変わる瞬間、見たね。」
西村が小さく頷く。
「次は、“好き”のベクトルを探す番です。」
夜のサイジムに、静かなジャズが流れ出した。
今日もまた、ひとつの心が調律を始めた。




