理論の夜
閉店後の「彩」。
照明は落とされ、カウンターの上には三つのグラス。
残響のように流れるジャズが、会話の間を埋めていた。
氷が静かに鳴る。カラン――。
武田がグラスを傾けながら、ぼそりと切り出した。
「……なあ、白鳥。正直なところ、どうなんだ?」
白鳥が顔を上げる。
「どうって?」
「お前らの理論、“サイサイセオリー”だよ。
ネットで検索しても、論文にも載ってねぇ。
それでいて、話を聞くと妙に筋が通ってる。……いったい何者なんだ?」
涼子が笑いをこらえながら、ワイングラスを軽く回す。
「“ベクトル欲求論”で検索してもゼロ件。
なのに、武田さんが本気で語ってるのを見ると、逆に興味出ちゃうわ。」
白鳥はグラスを置き、少し口元をゆるめた。
「……まあ、載ってないのが当たり前だ。
まだ、世界のどこにも存在していないからな。」
⸻
武田は口元で笑う。
「つまり、まだ地動説の段階ってわけか。」
「そうだな。
『太陽が回ってる』と思われてる時代に、“逆かもしれない”って言ってるだけだ。」
ジャズの音が静かにフェードしていく。
白鳥の声が、夜の空気に染み込むように響いた。
「でも、“信じてほしい”とは思ってない。
ただ、“見える世界が変わる”ってことだけは伝えたい。」
⸻
武田は腕を組み、しばらく黙った。
その沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……実はな。俺、この理論を最初に聞いたとき、笑い飛ばしたんだ。
“心理を物理で説明する”なんて、馬鹿げてると思った。
だが――“ランクが上がる時、人は必ずセフティの摩擦を越える”と聞いた瞬間に、
妙に納得した。
相場も、組織も、結局は摩擦との戦いだからな。」
甲斐が静かに頷いた。
「理にはかなっている。
“欲求をベクトルとして扱う”という発想は新しいが、構造は驚くほど整合している。
研究者としての感覚で言えば……数式にしたくなる理論だ。」
広中がグラスを回しながら続ける。
「俺もそう思った。感覚で語ってるようで、実は再現性がある。
反論しようにも、あらゆる現象が説明できてしまう。
それが怖いくらいだ。」
武田が低く呟く。
「……理にかなってるほど、宗教にもなる。
“正しすぎる理論”ってやつは、時に人を縛る。」
白鳥が小さく笑った。
「宗教になったら終わりだ。
これは“信じるもの”じゃなく、“使う道具”だ。」
武田はその言葉に、ゆっくり頷いた。
「……俺も同じ考えだ。
“信者”にはならない。だが、“使う側”でいたい。」
涼子がグラスを持ち上げた。
「使う、か。いい言葉ね。
理論は信じるものじゃなく、“結果を出すための仕組み”だもの。」
甲斐が静かに微笑む。
「だが、使う人間の思考を試す理論でもある。
使う人間のランクが低ければ、すぐに歪む。」
白鳥は目を細めた。
「そう。サイサイセオリーは、使う人の“心の摩擦係数”を試す理論だ。」
グラスの底の氷が溶け、
透明な水面に照明の光が滲んでいた。
武田が最後に口を開く。
「……面白い。
理論がここまで“生きてる”と感じたのは初めてだ。
数字じゃなく、人間の熱を動かしてる。
――悪くない。地動説、見せてもらおうじゃないか。」
白鳥が笑い、朝比奈が軽くグラスを合わせる。
カラン――。
その音が、静かな店内に、
まるで新しい時代の幕開けの鐘のように響いた。
―
夜が明けきらぬ丸の内のマンション。
窓際のカウンターに、ウイスキーグラスが二つ。
武田はネクタイを外し、静かにソファに腰を下ろしていた。
隣に座る妻・麻衣子が、穏やかな声で尋ねる。
「今日も“あの店”に行ってたのね。」
武田は軽く頷く。
「……ああ。彩だ。
あいつら、また例の理論を語っててな。サイサイセオリー、だ。」
妻が少し笑う。
「その名前、なんだかかわいいわね。
でも、あなたが真面目に話すのは珍しい。
いつもは理屈っぽい話は嫌うのに。」
武田はグラスを回しながら、
淡々と語り始めた。
「最初は馬鹿げた話だと思った。
“人間の欲求をベクトルで説明する”なんて、
心理学でも経済でも聞いたことがない。
だが……聞けば聞くほど、現場の感覚と一致するんだ。」
麻衣子が静かに耳を傾ける。
「たとえば、部下が成長する時って、必ず“怖さ”を越える瞬間があるだろ?
それをやつらは“セフティの摩擦を越える”って言う。
自分の安全圏を破る時、人は推進力を得る。
相場も人間も同じだ。
恐怖を抜けた先で初めて、流れが変わる。」
彼は少し笑って続けた。
「俺も、ずっと“数字の理屈”で世界を見てきた。
だが、この理論は“人のエネルギー”を扱ってる。
言葉よりも、動く理屈だ。
……正直、久しぶりに“投資したい”と思った。」
⸻
しばらく沈黙が流れた。
麻衣子はワイングラスを見つめたまま、
ゆっくりと微笑む。
「あなたがそんな顔をするの、いつぶりかしら。
若い頃、会社を辞めて外資に転職するって言い出したときみたい。」
武田が少し照れたように眉を下げる。
「無謀だと思うか。」
「いいえ。」
麻衣子は首を振った。
「むしろ嬉しい。
この年から夢を追える環境に、
私たちはまだ“いる”ってことだから。
お金より、あなたがまた何かを信じられる方が価値がある。」
武田はその言葉にしばらく何も言えなかった。
窓の外で、夜明けの光がビルの谷間に差し込み始める。
⸻
武田はグラスを置き、静かに立ち上がった。
スーツの上着を手に取りながら、低く呟く。
「……サイサイセオリーに投資する。
理屈じゃない。これは、流れだ。
俺が証券で見てきた“人の熱”そのものだ。」
麻衣子が微笑んで言う。
「なら、行ってらっしゃい。
“理論”にじゃなく、“人間”に投資してきて。」
武田は小さく頷き、
玄関のドアを開けた。
その一瞬、朝の光が差し込み、
長い夜が終わった。




