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25歳の誕生日のプレゼントは地下負債物件  作者: シンリーベクトル


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理論の夜

閉店後の「彩」。

照明は落とされ、カウンターの上には三つのグラス。

残響のように流れるジャズが、会話の間を埋めていた。

氷が静かに鳴る。カラン――。


武田がグラスを傾けながら、ぼそりと切り出した。


「……なあ、白鳥。正直なところ、どうなんだ?」


白鳥が顔を上げる。

「どうって?」


「お前らの理論、“サイサイセオリー”だよ。

 ネットで検索しても、論文にも載ってねぇ。

 それでいて、話を聞くと妙に筋が通ってる。……いったい何者なんだ?」


涼子が笑いをこらえながら、ワイングラスを軽く回す。

「“ベクトル欲求論”で検索してもゼロ件。

 なのに、武田さんが本気で語ってるのを見ると、逆に興味出ちゃうわ。」


白鳥はグラスを置き、少し口元をゆるめた。

「……まあ、載ってないのが当たり前だ。

 まだ、世界のどこにも存在していないからな。」



武田は口元で笑う。

「つまり、まだ地動説の段階ってわけか。」


「そうだな。

 『太陽が回ってる』と思われてる時代に、“逆かもしれない”って言ってるだけだ。」


ジャズの音が静かにフェードしていく。

白鳥の声が、夜の空気に染み込むように響いた。


「でも、“信じてほしい”とは思ってない。

 ただ、“見える世界が変わる”ってことだけは伝えたい。」



武田は腕を組み、しばらく黙った。

その沈黙の後、ゆっくりと口を開く。


「……実はな。俺、この理論を最初に聞いたとき、笑い飛ばしたんだ。

 “心理を物理で説明する”なんて、馬鹿げてると思った。

 だが――“ランクが上がる時、人は必ずセフティの摩擦を越える”と聞いた瞬間に、

 妙に納得した。

 相場も、組織も、結局は摩擦との戦いだからな。」


甲斐が静かに頷いた。

「理にはかなっている。

 “欲求をベクトルとして扱う”という発想は新しいが、構造は驚くほど整合している。

 研究者としての感覚で言えば……数式にしたくなる理論だ。」


広中がグラスを回しながら続ける。

「俺もそう思った。感覚で語ってるようで、実は再現性がある。

 反論しようにも、あらゆる現象が説明できてしまう。

 それが怖いくらいだ。」


武田が低く呟く。

「……理にかなってるほど、宗教にもなる。

 “正しすぎる理論”ってやつは、時に人を縛る。」


白鳥が小さく笑った。

「宗教になったら終わりだ。

 これは“信じるもの”じゃなく、“使う道具”だ。」


武田はその言葉に、ゆっくり頷いた。

「……俺も同じ考えだ。

 “信者”にはならない。だが、“使う側”でいたい。」


涼子がグラスを持ち上げた。

「使う、か。いい言葉ね。

 理論は信じるものじゃなく、“結果を出すための仕組み”だもの。」


甲斐が静かに微笑む。

「だが、使う人間の思考を試す理論でもある。

 使う人間のランクが低ければ、すぐに歪む。」


白鳥は目を細めた。

「そう。サイサイセオリーは、使う人の“心の摩擦係数”を試す理論だ。」



グラスの底の氷が溶け、

透明な水面に照明の光が滲んでいた。


武田が最後に口を開く。

「……面白い。

 理論がここまで“生きてる”と感じたのは初めてだ。

 数字じゃなく、人間の熱を動かしてる。

 ――悪くない。地動説、見せてもらおうじゃないか。」


白鳥が笑い、朝比奈が軽くグラスを合わせる。


カラン――。


その音が、静かな店内に、

まるで新しい時代の幕開けの鐘のように響いた。



夜が明けきらぬ丸の内のマンション。

窓際のカウンターに、ウイスキーグラスが二つ。

武田はネクタイを外し、静かにソファに腰を下ろしていた。


隣に座る妻・麻衣子が、穏やかな声で尋ねる。


「今日も“あの店”に行ってたのね。」


武田は軽く頷く。

「……ああ。彩だ。

 あいつら、また例の理論を語っててな。サイサイセオリー、だ。」


妻が少し笑う。

「その名前、なんだかかわいいわね。

 でも、あなたが真面目に話すのは珍しい。

 いつもは理屈っぽい話は嫌うのに。」


武田はグラスを回しながら、

淡々と語り始めた。



「最初は馬鹿げた話だと思った。

 “人間の欲求をベクトルで説明する”なんて、

 心理学でも経済でも聞いたことがない。

 だが……聞けば聞くほど、現場の感覚と一致するんだ。」


麻衣子が静かに耳を傾ける。


「たとえば、部下が成長する時って、必ず“怖さ”を越える瞬間があるだろ?

 それをやつらは“セフティの摩擦を越える”って言う。

 自分の安全圏を破る時、人は推進力を得る。

 相場も人間も同じだ。

 恐怖を抜けた先で初めて、流れが変わる。」


彼は少し笑って続けた。

「俺も、ずっと“数字の理屈”で世界を見てきた。

 だが、この理論は“人のエネルギー”を扱ってる。

 言葉よりも、動く理屈だ。

 ……正直、久しぶりに“投資したい”と思った。」



しばらく沈黙が流れた。

麻衣子はワイングラスを見つめたまま、

ゆっくりと微笑む。


「あなたがそんな顔をするの、いつぶりかしら。

 若い頃、会社を辞めて外資に転職するって言い出したときみたい。」


武田が少し照れたように眉を下げる。

「無謀だと思うか。」


「いいえ。」

麻衣子は首を振った。


「むしろ嬉しい。

 この年から夢を追える環境に、

 私たちはまだ“いる”ってことだから。

 お金より、あなたがまた何かを信じられる方が価値がある。」


武田はその言葉にしばらく何も言えなかった。

窓の外で、夜明けの光がビルの谷間に差し込み始める。



武田はグラスを置き、静かに立ち上がった。

スーツの上着を手に取りながら、低く呟く。


「……サイサイセオリーに投資する。

 理屈じゃない。これは、流れだ。

 俺が証券で見てきた“人の熱”そのものだ。」


麻衣子が微笑んで言う。

「なら、行ってらっしゃい。

 “理論”にじゃなく、“人間”に投資してきて。」


武田は小さく頷き、

玄関のドアを開けた。

その一瞬、朝の光が差し込み、

長い夜が終わった。

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