ドイツと日本の生産性
夜の「彩」。
入り口のベルが鳴り、甲斐が姿を見せた。スーツの襟が少しよれている。
「こんばんは……。」
声に張りがない。
理沙がいつもの笑顔で迎える。
「お疲れさまです、甲斐さん! 今日は顔が“学会帰り”って感じですね!」
甲斐は苦笑しながらカウンターに腰を下ろした。
「いや……講義の準備が思うように進まなくてね。日本の生産性について話すことになってるんだけど、どうもうまく整理できない。」
白鳥が隣の席でグラスを傾ける。
「珍しいな。いつもは“考えながら喋るタイプ”だろ。」
「それが、今回は逆なんだ。
喋ってるうちに自分の頭がぐるぐるしてくる。」
白鳥は顎をさすり、少し笑った。
「それなら、西村を呼べ。あいつに喋ると、勝手に自分の整理が進む。」
甲斐は苦笑した。
「便利な使われ方だな。……でも、確かにそうかもしれない。」
⸻
数分後、白衣姿の西村が厨房から顔を出す。
「……生産性ですか?」
白鳥がグラスを掲げた。
「そうそう。甲斐が“日本の生産性の摩擦”で悩んでる。
お前の頭の中を一回通してみてくれ。」
西村はタオルで手を拭きながら、甲斐の隣に座った。
「……で、何が引っかかってるんです?」
甲斐は少し考えてから言った。
「ドイツと日本、どちらも真面目で勤勉。
でも一人あたりの生産性は、なぜこうも違うのか。
文化論で片づけるのは簡単だけど、それじゃ分析にならないんだ。
“構造的な摩擦”として見たら、説明できる気がする。」
西村の目が光る。
「……摩擦の置き方、ですね。」
白鳥が笑う。
「始まったな。おれは聞き役に回るわ。」
⸻
西村は紙ナプキンを引き寄せ、さらさらとペンを走らせた。
「じゃあ、こうしましょう。
“同じ労働エネルギー”を加えても、結果が違うんです。
その差は、どこで摩擦を消費しているか――つまり“μ(ミュー)”の配置の問題です。」
甲斐はグラスを見つめながら頷いた。
「つまり……生産性の差は、怠けではなく“摩擦設計の違い”か。」
「ええ。たとえば――」
そこから、西村は項目ごとにμを書き分けていく。
会議のμ、仕様変更のμ、権限移譲のμ、教育と休暇のμ……。
甲斐はうなずきながら、まるで講義のメモを取る学生のように聞き入った。
白鳥がぼそりとつぶやく。
「やっぱりこの店、大学よりよっぽど学べるな。」
甲斐は笑って答えた。
「たしかに。“彩大学”だな。」
西村はペンを置き、グラスの水を一口飲む。
「つまりこうです。
ドイツは“仕組みで摩擦を減らす”。
日本は“人で摩擦を吸収する”。
だから同じ力でも、流れるエネルギー量が違うんです。」
甲斐は目を細め、静かに言った。
「……なるほど。やっと言葉になったよ。
摩擦が“悪”なんじゃなくて、“配置”が違うだけなんだな。」
西村は頷き、紙ナプキンをたたんで渡した。
「これ、講義の冒頭で使ってください。
“摩擦をどこに置くかが、その国の生産性を決める”――
その一文で、学生の目は変わります。」
甲斐は笑いながら受け取った。
「助かったよ、教授。」
西村は肩をすくめた。
白鳥がすかさず言う。
「教授は、あんたやがな!」
一同がシーンとする。
西村はメガネを直しながら、咳払いした。
「コホン。摩擦が低かったようですね……。」
白鳥が苦笑して言う。
「要は、すべったんだな……。」
カウンターの空気が、柔らかくほどけた。
甲斐の顔には、ようやく研究者らしい静かな光が戻っていた。
⸻
この夜、「彩」はまた一つ、新しい理論の原稿を生み出した。
酒と会話と、そして摩擦が――ゆっくりと光に変わる場所で。




