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読書

カウンター席。

甲斐が連れてきた研究員・田中は、メガネを押し上げながら熱っぽく語っていた。

「本って、やっぱり人生を変えますよね。僕は30冊くらいノートに要点をまとめてて……」

涼子はワイングラスを回し、薄く笑う。

「へえ、偉いわね。でも――所詮、人の書いた本よ」

田中が息をのんで固まる。

「……どういう意味ですか?」

「つまりね。ドラッカーが書こうが、ティールが書こうが、それは“彼らの頭の中の最適解”に過ぎないの。読者の私たちにとっては、状況も資源も人間関係も、あの本の前提と全然違うでしょ? 特にね、私が昔『組織はこうあるべき』って堅い理論に合わせようとした時なんて、現場の熱意を全部見失ったわ」

西村が横から補足するように口を挟む。

「要するに、ベクトルの合力が変われば最適解も変わる、ってことね。人の理論を無理に自分に当てはめると、摩擦が増えるだけ」

田中はぐっと言葉を詰まらせた後、反論を試みる。

「でも、そうまでして偉大な先人の理論を裏切るのは、どこか傲慢な気がします……! せっかく先人たちが血の滲むような努力で作り上げた『道』があるのに」

涼子は静かにワインを一口含む。

「いいえ、『道』なんて幻想よ。現場で汗かいた経験や、実際に人を動かしてみた試行錯誤。結局は、それをどう“自分の法則”に書き換えられるかで決まるの」

そこで甲斐が静かにグラスを置き、田中に目をやる。

「研究だって同じだ。先行研究をなぞるだけなら修士論文止まり。博士になりたければ、自分の式で世界を説明しないとね。先人の理論は“道具”だが、“檻”じゃない」

理沙が口を拭いながら、会話に割って入る。

「つまりさ、レシピ本通りに料理を作っても、その日の気分や、お客さんの体調に合わなきゃ失敗ってことだよね! 味付けは自分で決めないと!」

田中は顔を赤らめて頷いた。

「……なるほど。本を読むって、“正解を探す”んじゃなく、“自分の答えをつくる材料”にすることなんですね」

涼子は満足げにワインを飲み干す。

「そういうこと。理論は読むたびに裏切られるくらいでちょうどいいのよ」

カウンターでワインを傾けながら、涼子がふと笑った。

「……ちなみに私、本は3千冊以上は読んでるわ」

「さ、3千!?」

田中が思わず声を上げる。

「どうやってそんなに……じゃあ、無駄じゃないですか! 3千冊も読んで『正解がない』なんて!」

涼子は小さく首を振り、口角を上げた。

「むしろ逆。読むたびに『これは違う』って裏切られる。その裏切りがあるから、自分の法則が研がれていくの。3千冊は、私にとって“捨てた錯覚の数”みたいなものよ。寧ろ砥石ね」

田中は、目の前のグラスに映る自分の顔をじっと見つめ、小さくつぶやいた。

「……傲慢じゃなく、試行錯誤の数、か」


高橋と茜が演奏を終えて一息ついた。

演奏に耳を傾けていた甲斐がグラスを傾け、研究生の田中をちらりと見やった。

「正直な話な……研究者ってのは、考え方が凝り固まりやすい。

 学会で評価されるのは“正統派”の証明ばかり。だから新しいアイデアなんて滅多に出ない」


田中はむっとしたように眉をひそめる。

「でも、研究には厳密さが必要じゃ……」


甲斐は笑って首を振った。

「もちろんそうだ。だが、世の中を動かす発想は、往々にして素人考えの方から出るもんだよ。

 枠にとらわれないからこそ、研究者が一生気づけない答えに辿り着くことがある」


その言葉に、白鳥がゆっくりと口を開いた。

「……でもさ、その“素人考えが面白い”って言い方自体が、研究者の凝り固まりじゃないの?」


甲斐が目を細める。

「どういう意味だ?」


白鳥は苦笑して肩をすくめる。

「結局、“素人が面白い”って評価するのも研究者の物差しだろ?

 本当は、自分の考えを完全に捨てきれないから、素人の自由さに勝手に価値を見てるだけなんじゃないのか」


西村が横から冷静に補足する。

「要するに――研究者は自分の前提をゼロにできない。

 だから素人の発想が新鮮に見えるのも、“自分が縛られてる”証拠ってことね」


甲斐は一瞬黙り込み、やがて小さく笑った。

「……さすが白鳥くんだ。痛いところを突く」


涼子がワイングラスを軽く掲げる。

「理論でも研究でも、結局は“どれだけ自分を疑えるか”よね」


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