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25歳の誕生日のプレゼントは地下負債物件  作者: シンリーベクトル


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ランク?

トレーディングフロアの喧騒がひと段落した午後。

資料を抱えた藤原が、意を決したように声をかけてきた。


「……武田さん、最近、表情が変わりましたね」


武田は眉を上げ、振り返る。

「藤原か。どういう意味だ?」


「以前は、もっと常に張り詰めていたように見えました。

でも最近は……どんな荒い相場でも、落ち着いて構えている感じがします」


武田は少し黙り、視線を窓の外へやった。

霞む丸の内の街並みを眺めながら、心の中で――

(……なるほど、あの店に行き出して知らず知らずのうちに奴らに感化されちまったのかもしれん)

とつぶやく。


しかし口に出したのは、それとは違う言葉だった。


「理由は自分でも分からん。だが……きっかけになった場所ならある」


「場所……ですか?」

藤原は意外そうに首をかしげる。


武田は薄く笑って、ネクタイを緩めた。

「ただの居酒屋だよ。だが、俺にとっては大事な店だ。

近いうちに連れて行ってやる」


藤原は目を丸くしたまま頷いた。

「……はい、ぜひお願いします」


武田はその反応に満足げにうなずき、再び資料に目を落とした。

(多くを語る必要はない。あの空気を味わえば、きっと伝わるはずだ――)



丸の内のオフィス街から少し離れた裏通り。

仕事を終えた武田は藤原を連れて歩いていた。


「……本当に、こんな路地に?」

部下は戸惑い気味に足を止める。


目の前に現れたのは、黒を基調とした木枠の外観。

深い藍色の麻暖簾に「彩」と一文字。

柔らかな行灯の灯りが入口を照らしていた。


「ただの居酒屋だよ」

武田は短くそう言い、暖簾を押した。


――中に入った瞬間、藤原は思わず息をのんだ。


磨かれた木のカウンター、落ち着いた照明、そして漂う出汁の香り。

賑やかさはなく、けれど温かな声と笑いが交錯する空気。

会社の飲み会の喧噪とはまるで違う。


「いらっしゃいませー!」

明るい声で迎えたのは理沙。

満面の笑みでおしぼりを差し出してくる。

「お二人ともお疲れさま! 初めてですよね? 今日は特別にいいの出しますよ」


藤原はその距離感の近さに戸惑い、苦笑いした。


やがて山城が運んできたのは、透明なシャンパングラス。

中には冷たい黄金色の液体が注がれ、表面に小さなミントが浮かんでいる。


「……これは?」

藤原は恐る恐る口に含んだ。


冷たさと清涼感、そして後から広がる深いトマトの旨味。

思わず目を見開き、言葉を失った。


「スープ……ですか?」


山城が頷く。

「トマトの透明スープ。冷やして仕立ててみた。

シャンパングラスで飲むと、印象が変わるだろ?」


藤原は黙ってグラスを見つめた。

その横で武田はただ静かに酒を傾ける。


藤原は驚いて武田を見た。

「……これが、武田さんの言っていた“きっかけ”なんですか?」


武田は答えず、ただ淡い笑みを浮かべた。

グラスを軽く掲げ、静かに口をつける。


その表情は確かに、藤原が会社で感じた「以前とは違う表情」そのものだった。




カウンターの端から、隣客の愚痴が聞こえてきた。


「うちの課長、また大声で怒鳴ってさ。

威張るしか能がないよな」


白鳥がぼそりと呟く。

「……ああいうの、ランクを守りに行ってるだけだ」


武田はグラスを軽く揺らしながら、淡々と続ける。

「守ろうと必死になるほど、かえって失うんだがな」


藤原は首をかしげた。

「ランク……ですか? 役職のことですか?」


白鳥がちらりと笑う。

「いや、もっと人の根っこに近いもんだ」


藤原はさらに分からなくなった。

「根っこ……?」


武田はそれ以上は言わず、酒を口に運んだ。

「……まあ、今は気にしなくていい」


会話はそれで流れていった。

だが「ランク」という言葉だけが、藤原の胸に妙な余韻を残した。

――昇進でも肩書きでもなく、人間の行動を突き動かす何か。

武田が変わった理由は、その“ランク”に関わっているのかもしれない。

翌朝のフロア。

相場の情報がひっきりなしに飛び交い、端末のアラートが鳴り続けている。

藤原は忙しくキーボードを叩きながらも、昨夜の「彩」で聞いた言葉が頭に残っていた。


――「ああいうの、ランクを守りに行ってるだけだ」

――「必死になるほど、かえって失うんだ」


そのとき、上席のマネージャーが別の若手を強く叱りつけていた。

「だから何度言えば分かるんだ! この数字じゃクライアントに見せられん!」


叱られているアソシエイトは萎縮し、周囲の空気も硬くなる。

藤原はふと気づいた。

(……これは“役職としての権威”じゃなくて、“見下されるのを恐れる必死さ”なんだ……)


そこで、また武田の落ち着いた横顔が思い浮かぶ。

あの人の表情が変わったのは、肩書きを背負いながらも、こういう「必死さ」に呑まれなくなったからではないか。


「……ランクって、そういうことなのか?」

思わず小さくつぶやいてしまった。


周りには聞こえなかったはずだが、胸の中でその言葉は確かに響いた。

――昨夜、彩で武田が口にした“ランク”は、役職や序列を超えた、人間を動かすもうひとつの力のことなのかもしれない。


藤原は端末に目を戻しながらも、不思議と心が静まっていくのを感じた。

昨日までより、少しだけ落ち着いて市場を見られている自分に気づきながら。



その夜カウンターに座った藤原が、思い切って口を開いた。


「……この前聞いた“ランク”って言葉、やっぱり気になるんです。

役職とか昇進のことじゃないんですよね?」


白鳥がニヤリと笑い、指を折って挙げていく。

「そうそう。ランクってのは“認められたい欲求”みたいなもんだ。

ただな――その出し方を間違えると滑稽になる。

たとえば……」


「失敗を隠すための 言い訳。

恩を売るためにわざとらしい 恩着せ。

知識が浅いのに語りたがる 知ったかぶり。


ああいうのは、ぜーんぶランク欲求の裏返しだ」


藤原は思わず苦笑した。

「……確かに、職場でも見かけますね」


武田が淡々と補足する。

「そうやって“必死に上に見せようとする”ほど、人は逆に評価を落とす。

本当のランクは、静かに積み上がるものだ」


白鳥はグラスを軽く回しながら言う。

「結局、“俺はここにいていい”って証明を欲しがるのは誰も同じ。人間の本能と言ってもいい。

ただ、その欲求をどう出すかで、人生の景色がまるで変わるんだよ」


藤原は黙って頷きながら、その言葉を飲み込んだ。

――ランクとは昇進や肩書きじゃなく、人間の根っこの承認欲求。

しかも、それをどう表すかで、尊敬にも失笑にも変わってしまう。


彼はグラスに映る自分の顔を見て、不思議と少し落ち着いていることに気づいた。

(……これが、武田さんが変わった理由かもしれない)



翌日。

フロアは朝から忙しく、モニターに赤や緑の数字が踊っていた。

藤原はアソシエイトの一人と資料を確認していたが、突然その若手が慌てた声を上げた。


「す、すみません……! この計算式、入力を間違えてたみたいで……」


マネージャーが厳しい目を向けると、若手は咄嗟に言い訳を並べ始めた。

「い、いや、でも昨日はデータが遅れて届いて……それに、ほかのチームも確認してなかったですし!」


その言葉を聞いた瞬間、藤原の頭に昨夜の白鳥の声が甦った。


――「言い訳、恩着せ、知ったかぶり。ぜーんぶランク欲求の裏返しだ」


そして、武田の低い声も。

――「必死に上に見せようとするほど、逆に評価を落とす」


目の前の若手の必死な弁解は、まさにそれだった。

藤原は自分の胸が妙に冷静になっていることに気づいた。


(……これが“ランクの誤用”か)


彼は深呼吸し、資料を取り直して冷静に対応した。

「まずは数字を直して、事実を整理しましょう。責任の所在よりも、正しいデータが先です」


マネージャーがちらりと彼を見て頷いた。

若手も渋々だが黙り込み、再入力を始める。


そのとき、藤原はふと気づいた。

――昨日までなら、自分も焦って言い訳を探していたかもしれない。

でも今は、少し違う。

「ランク」という言葉が胸に残っているおかげで、自分の行動を一歩引いて見られている。


ディスプレイに映る数字の列が、ほんの少し落ち着いて見えた。

藤原は心の中でつぶやいた。


(……確かに、俺の表情も変わり始めてるのかもしれない)



数日後。

藤原は再び一人で「彩」の暖簾をくぐった。

もう最初のような緊張はなかった。


「おっ、藤原さんまた来てくれた!」

理沙が満面の笑みで手を振る。

「今日は特別メニューあるよ!」


山城が静かにカウンターにグラスを置いた。

中には淡い緑色の液体。冷たく滑らかな表面に、細かく刻まれたハーブが浮いている。


「……これは?」

藤原は思わず目を丸くする。


「ずんだのビシソワーズ。枝豆をすり潰して冷たいスープに仕立てた。

ほんのり甘くて、だけど芯にコクがある」


恐る恐る口に運ぶと、冷たさとともに広がる優しい甘み。

後からじゃがいものまろやかさが支えになって、枝豆特有の香りが余韻を残す。


「……ちゃんとスープですね」


「でしょー!」

理沙が大げさに手を叩く。

「うちの山城シェフガサツなくせにオシャレなもの作るの。やるでしょ?」


山城は苦笑しながらも、手を止めずに鍋を振っている。

ずんだのスープを飲み干した部下は、ふとカウンターの端に目をやった。

そこには小さなノートPCが数台、静かに光を放っている。

来店した客が時折触っては、何やら入力しているようだった。


「……あの、武田さん。このPCは?」

藤原は思わず尋ねていた。


武田はグラスを置き、肩をすくめた。

「客が自由に打ち込む“お題箱”みたいなもんだ。

悩みでも愚痴でも、時にはただの思いつきでも入力する。

それを見て、みんなで語ったり笑ったりするんだ」


白鳥が横から口を挟む。

「たとえば、“上司に言い訳ばかりされて困る”とか、“部下が知ったかぶりする”とか。

そういうのがここに集まって、酒の肴になるわけだ」


理沙が笑いながら手を振った。

「真面目な相談もあるけど、だいたい誰かが茶化すから重くならないんですよ!」


部下は画面を見つめながら小さく息をついた。

(……言い訳、恩着せ、知ったかぶり。昨日までならただの愚痴で流していた。

でも今は、“ランクの誤用”として見える……)


武田は藤原の視線に気づいたが、何も説明せず、ただ言った。

「お前も入力してみろ。

きっと、自分でも気づかなかったことが出てくる」


藤原は少し戸惑いながらも、PCのキーボードに手を伸ばした。

入力画面に映る白いカーソルが、静かに瞬いている。

部下はキーボードに手を置きながら、画面に映る文章を眺めていた。


〈今日の俺、また上司に恩着せがましい言い方してしまった〉

〈知ったかぶりで会議を切り抜けたけど、あとで後悔してる〉


思ったよりも率直な言葉が並んでいた。

だがそこには攻撃的な言葉や誰かを傷つける文は見当たらない。


「……これ、SNSみたいですけど、妙に落ち着いてますね」


西村がノートを閉じながら答える。

「匿名じゃないからよ。ここにいる誰かの発言だって分かってるから、誹謗中傷はまず起きない。

でも同時に、直接口にするよりは言いやすい。だから“本音”が集まるの」


理沙が笑ってグラスを掲げる。

「ね、SNSと現実会話の中間って感じでしょ!

だから読みながら飲んでると、ついツッコミ入れたくなるんだよね」


藤原は画面を見つめながら、小さく頷いた。

(……確かに、SNSみたいな毒はないのに、現実より素直。

だからこそ“人の欲求”がよく見えるのかもしれない)


武田は何も言わずに横でグラスを回していた。

ただ、その落ち着いた横顔を見ているだけで、藤原は理解した気がした。

――この空気に触れることで、武田の表情が変わったのだ、と。


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