あちらのお客様からですサービス
西村の前に、新しいグラスが静かに置かれた。
「あちらのお客様からです」と告げられ、振り向くと、カウンターの武田がわずかにグラスを掲げていた。
――例のサービスだ。
西村は少し驚き、そして小さく息を整えた。
「……正直に言うと、私、発想力ってあまりないんです」
指先でグラスの水滴をなぞりながら、淡々と語り始める。
「白鳥くんや佐伯さんみたいに、ゼロから面白いことを生み出すタイプじゃない。
でも、情報を整理して構造を見つけ、形にしていくのは得意なんです。
未知のデータ点から新しい数式を作るより、散らばったデータを回帰直線にまとめる方が好きなんです。」
少し微笑み、続けた。
「整理した結果を仲間に渡すと、そこから新しい発想が広がる。
私が平面にしか見えなかった数式が、みんなの手で立体になる。
――その瞬間が、私にとっていちばんの喜びです。」
彼女は一呼吸おいて、視線を上げた。
「“あちらのお客様からです”も、山本くんが仕組みにしてくれたおかげで、アイデアが“機能”になった。
私は、そういう“形にする工程”が好きなんです。理論を定理に変えるような感覚で。」
武田は黙って聞いていたが、やがて短く呟いた。
「……役割を数式で語るやつは珍しいな。
それだけで、もう発想的だ。」
西村は小さく笑い、グラスを掲げた。
隣の涼子がその様子を見ながら、静かに口を開いた。
「発想と構築。どちらも理論を動かすためには必要ね。」
彼女はグラスの縁を指でなぞりながら、少し遠くを見た。
「きっかけはね、小学生のときだった。
リビングに父のドラッカーがあって、“経営”って響きに惹かれて手を伸ばしたの。
父に見つかって笑われたわ――『それを理解できたら大人だ』って。
その一言が、ずっと胸に残った。」
一度微笑み、すぐに真顔に戻る。
「最初は意味なんて分からなかった。
でも、“人をどう動かすか”という考え方が大人の世界にはある――そう感じた。
そこから、私はずっと“人の行動”を観察してきたの。」
涼子は視線を西村に戻す。
「高校の部室で、あなたたちが“人の行動をベクトルで説明できる”って語ってたとき、
気づいたら身体が勝手に動いてた。
あれは、私がずっと探していた“答えの種”だった。」
彼女は静かに息を吐き、グラスを軽く持ち上げる。
「私は理論を広める側だった。
ゼロから創ったのは白鳥くんや西村さん。
でも、それを人に届かせて、動かす――そこからが私の役割。
経営者になりたいわけじゃない。
ただ、“学び続ける経営者”ではありたい。
いつか、あの父に胸を張って“理解できた”と言えるように。」
短い沈黙が落ちる。
武田はグラスを回しながら、低く言った。
「理屈を動かす力――それがあるから理論は生きる。
広げる人間がいるから、世界に届くんだ。」
カウンターに氷の音が響く。
西村、朝比奈、武田――
三人の言葉が、理論と現実の間に静かに橋をかけていた。
武田は静かにグラスを置き、目を細めて語り始めた。
「若い頃、ニューヨークの市場で一晩に数百億を動かしたことがある。
為替が跳ねる瞬間を読み切って、ヘッジファンドの大物を逆に出し抜いた。
あの夜だけで会社の四半期利益の半分を叩き出したんだ」
白鳥が思わず口笛を鳴らす。
理沙が目を輝かせ、西村でさえ一瞬だけ驚いた表情を見せた。
武田はグラスを傾け、苦笑を漏らす。
「……だがな、そんな話をしても周りとは温度差しか生まれなかった。
飲みの席で『昨日数百億動かした』なんて言っても、誰もピンとこない。
“すごいですね”で終わりだ。
こっちは命を削って戦った興奮がまだ身体に残ってるのに、伝わらない。
それが逆に虚しくてな」
西村が少しうつむき、涼子は静かにペンを止めた。
武田はカウンターの天井を見上げ、低く続ける。
「気づけば俺は、勝った喜びよりも“分かち合えない孤独”を抱えていた。
エリートと呼ばれても、結局は孤立していく。
……そんな錯覚を、ずっと引きずってきた」
沈黙。
そのあと、武田はゆっくりとグラスを掲げ、居酒屋のざわめきを眺める。
「だがこの店にいると、少しだけ違う。
理屈を持ち寄って笑ったり、数字で語り合ったり……。
本当に見つけたわけじゃない。
けど、“ここなら俺にも場所がある”って錯覚できる。
それだけで十分なんだ。
おまえらの言う“ランク”が満たされていくみたいだ」
西村は真剣な眼差しでうなずき、涼子は小さく微笑んだ。
白鳥が気恥ずかしそうにグラスを掲げ、理沙が「かんぱーい!」と声を上げる。
氷の音と笑い声が重なり、武田の胸に、久しぶりに温かいものが広がった。
――後日、准教授の甲斐が店に現れた。
本を抱えたままスーツのジャケットを脱ぎ、少し緊張した面持ちでカウンターに腰を下ろす。
「先生~! この前ね、武田さんがすごい話してくれたんですよ!」と理沙。
「そうそう。一晩で数百億を動かしたことがあるとか。
でもその後、“誰とも分かち合えない孤独が残った”って……」と白鳥。
甲斐は一瞬目を細め、グラスを受け取りながら静かにつぶやいた。
「……武田らしいな」
西村が首をかしげる。
「先生、武田さんと昔からの知り合いなんですか?」
甲斐は少し考え込み、やがて口を開いた。
「ああ。昔からの知り合いだ。
彼がまだ若手トレーダーだった頃、私は大学院で市場理論を研究していた。
数字と理論で市場を読み解こうとしていた私にとって、武田は“理論を現実で体現する存在”だった」
彼はグラスをゆっくり傾け、思い出を掘り起こすように続ける。
「武田は、数百億を一晩で動かす。
私は、数式でその一部を説明する。
……私の理論は彼の成果に追いつけたのか?
いや、正直、追いつけなかったことの方が多い。
だが、だからこそ私は研究を続けてきた。
“彼がやったことを、後からでも説明できる理論を作りたい”と」
涼子が感心したようにうなずく。
「現場と理論、両輪ってことですね」
甲斐は小さく笑い、グラスを掲げた。
「そうだな。武田は現場で人を動かし、私は教室で理論を広げる。
違う場所に立ちながらも、互いに補い合う関係なのかもしれない」
そして少し照れくさそうに、静かに付け加えた。
「……彼が“孤独だ”と語ったのなら、私は研究室で似た孤独を抱えてきたんだろう。
だが、こうして同じ店に座れば、孤独も錯覚に変わる。
武田がそう感じたのなら……私も同じだ」
場が静まり、やがて理沙が「先生もカンパイ!」と声を上げる。
甲斐は笑みを浮かべ、グラスを高く掲げた。




