第8話 見られたい男
伊庭雅彦は、鏡を見る時間が長い男だった。
洗面所の前、電車の窓、コンビニのガラス扉。
ふと気づけば、自分の姿を探している。ネクタイの位置を直し、髪を撫でつけ、表情を作る。
仕事では特に目立たず、誰からも頼られもしない。
だからこそ、どこかで“誰かの視線”を感じていないと、息苦しさに押しつぶされそうになった。
──見られていれば、存在できる。
──存在できていれば、今日も生きていていい。
その思いは、いつしか習慣になっていた。
◇ ◇ ◇
帰宅すると、彼は上着を脱ぐより先に姿見の前に立つ。
少し緩んだ頬を隠す角度を探りながら、鏡の中の自分と目を合わせる。
「……よし」
独り言のように呟いて、ひと息つく。
誰かに評価されたいのではない。ただ、視界の中に「自分の輪郭」があることが、かろうじて自我を保たせてくれるのだった。
見られることが目的化している。
そんなことは、自分でも気づいていた。
◇ ◇ ◇
休日になると、伊庭は繁華街に出た。
目的もなく、人の多い通りをただ歩く。
視線がこちらに向いている気がするたび、歩き方に気を遣い、顔の角度を調整する。
だが、誰も声はかけてこない。
誰の記憶にも残らない。
──見られているようで、見られていない。
──存在しているのに、存在していない。
夜、自室に戻ってカーテンを閉めたあと、伊庭は再び鏡の前に立った。
そして、にこりと笑ってみせる。
その笑顔が、どこか寂しく歪んでいたことに、彼は気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
ある夜のこと。
閉店後のビル街を歩いていた伊庭は、大きなガラスに映った自分の姿に足を止めた。
蛍光灯に照らされ、くっきりと浮かぶ輪郭。静止したポーズ。整ったスーツ。
その背後から、声がした。
「……あなたは、誰に見られているのでしょうね」
振り返ると、そこに男が立っていた。
スーツ姿のまま、背筋を伸ばし、上品な笑みを浮かべている。
だが、その存在感には妙な緊張感があった。
その男は、まるで──最初から、ガラスの向こう側にいたかのようだった。
「こんばんは。墨野福之助と申します。“心の整備士”です」
「心の整備……?」
「見られることでしか自我を保てなくなると、“見られていない瞬間”が死と同じになってしまう。
いずれ、あなたは“見られない自分”を消そうとします。──それは危険な兆候です」
言葉が出なかった。
男はそっと微笑んで、最後に言った。
「では、整備いたしましょうか。ギューッと──」
◇ ◇ ◇
翌朝、伊庭は自分の姿が少し“映え”て見えることに気づいた。
髪が整い、顔色がよく、鏡の中の笑顔が自然だった。
目の下のくまも、どこか消えている。
「……これが本当の俺か?」
そう思った。
通勤中、電車の窓にも自分の姿が綺麗に映る。
街のガラス戸に、理想通りの立ち姿が投影されていた。
それが嬉しくて、伊庭は道ばたの小さな鏡や水たまりにまで目を向けるようになった。
◇ ◇ ◇
やがて、鏡の中の“自分”は、伊庭の知らない表情を見せるようになった。
少し早く笑う。
わずかに違う角度で首を傾ける。
時には、まばたきが合わない。
「あれ……?」
最初は見間違いかと思った。
けれど、その“ズレ”は日ごとに大きくなっていく。
鏡の中の自分が──自分を演じているようだった。
◇ ◇ ◇
次第に、現実と映像が入れ替わり始めた。
街を歩いていても、ガラスに映る“彼”の方が表情が生きている。
職場でも、人々の視線は「伊庭の姿」ではなく、反射の中の“何か”を見ているようだった。
いつのまにか、鏡の中の彼が本物になり、こちら側の彼が──おまけのようになっていった。
◇ ◇ ◇
ある晩、伊庭は部屋中に鏡を並べて座っていた。
正面、斜め、後方。
そこに映る無数の“自分”が、皆、微笑んで彼を見つめている。
その視線が、唯一の支えだった。
「見ていてくれよ」
「ここに、いるだろう……?」
伊庭の本体は、次第に淡くなっていった。
照明を落とした部屋の中、鏡には笑顔が残っているのに、現実には誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
管理人が異変に気づいたのは、それから数日後のことだった。
「変なんだよ。あの部屋、鏡だらけだったのに……」
警察が調べた室内には、誰の姿もなかったという。
「……どの鏡にも、何も写ってなかったんだよ」