第7話 失敗した男
研究棟の最上階、深夜の静けさに包まれた一室。
今井大祐は蛍光灯の青白い光の下、静かにキーボードを叩き続けていた。
ディスプレイに映るのは論文の草稿。人工知能の倫理と人間性の関係について。
研究は順調だった。締切も守っていた。評価も悪くない。
だが、何かが引っかかっていた。
視線の端、机の上の定規がわずかに傾いているのが気になって仕方がない。
そっと手を伸ばし、角度を揃える。ペンのキャップもまっすぐ差し直す。
──これでいい。……いや、まだだ。
椅子に座り直し、背もたれの角度を確認する。
エアコンの風量を1段階下げる。キーボードの位置を4ミリ左に寄せる。
そんな繰り返しの中で、ふと気づく。
──何をやっているんだ、俺は。
「整えていなければ、安心できないんですねぇ」
男の声が、すぐ後ろから響いた。
反射的に振り返ると、書棚の陰から一人の男が現れた。
濃紺のスーツに身を包み、髪をきっちり撫でつけた紳士。
口元には柔らかな笑み。見覚えはなかった。
「誰だ? どこから入って来た?」
問いかけても、男は名刺を差し出すだけだった。
“心の整備士 墨野福之助”。
今井は無言で名刺を机に置いた。
「あなたの心には、いくつかのネジがございます。少々締まりすぎているようです」
「科学的根拠のない話には興味がありません」
墨野は笑みを絶やさず、今井の背後にまわると、両肩にそっと手を置いた。
「整備、いたしますね。──ギューッ」
不思議な擬音とともに、背骨をなぞるような感覚。
だが、何も変わらなかった。
今井は黙って座ったまま、背筋を伸ばし、眉ひとつ動かさない。
「……感じませんか?」
「あなたが何かをしたという事実は、私の知覚には存在しません」
墨野の表情から、初めてわずかな戸惑いの色が浮かんだ。
それでも彼は平静を装い、机の上に手を添えて立ち上がった。
「……なるほど。この方は……もう整備しきれませんね」
それだけを呟くと、男は音もなく部屋から消えた。
足音も、扉の開閉音もなかった。
今井は首をかしげたが、すぐに画面に目を戻した。
◇ ◇ ◇
翌朝、今井は決まった時間に目覚め、研究棟へと向かった。
だが、研究室に着くなり違和感を覚えた。
イスの高さが微妙に合わない。机の天板に薄く歪みがある気がする。
窓のブラインドの開き具合が不均等に見えた。
それを正すと、今度はパソコンのモニターの位置がわずかに傾いている。
それを直すと、壁の時計が微妙に右へ寄っている。
直しても直しても、どこかが気になって仕方がない。
夜になっても帰らず、備品の配置をミリ単位で修正し続ける今井の姿を、通りかかった清掃員が訝しげに見つめていた。
◇ ◇ ◇
一週間後、今井は大学の中で倒れていた。
発見時にはすでに心肺停止しており、検死の結果は“過労による突然死”。
だが、不可解な点があった。
彼の研究室は異様なほど整っていた。
書籍は全て高さ順、すべての家具が正確に90度で配置されており、
キーボードとモニターの距離すらミリ単位で整列していた。
そして、今井自身もまた、
両手をまっすぐ揃えて机に突っ伏しており、
その口元には、薄く、だが明確な笑みが浮かんでいた。
安らかとも、満足げとも取れるその表情を見て、
誰もが言葉を失った。
だが、同僚の一人が漏らした一言だけが、
部屋にひそやかに響いた。
「……あれが、“整備できなかった”人間の末路、なのかもしれないな」