第6話 聞き専の彼女
佐々原久美子は、話すより聞く方が楽だった。
朝の通勤電車ではイヤホンを深く差し込み、視線を落とす。
職場では必要最小限の会話にとどめ、昼休みはひとりで静かに過ごす。
会議中も、誰かが喋る横で黙ってメモを取り、相槌を打つだけ。
若い頃は、もっと会話ができていた気がする。
けれど年を重ねるうちに、言葉を口にすること自体が妙に億劫になってきた。
喉が固く、肺が浅い。声を出すたび、体のどこかが重たくなるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
そんな久美子の楽しみは、配信アプリを聞くことだった。
トークテーマは、恋愛や職場の愚痴、流行のエピソードなどさまざま。
テンポよく、明るく喋る若い配信者たちの声を、久美子はイヤホン越しに静かに聴いていた。
言葉の流れに乗ることも、共感のコメントを送ることもない。
ただ、そっと聞いているだけ。
それで十分だった。
自分が「誰かの中に混ざっている」と錯覚できる時間。
孤独を見ないふりができる、耳だけの社交空間。
◇ ◇ ◇
ある夜、いつもの配信部屋に入ろうとすると、奇妙な通知が表示された。
《耳が疲れていませんか?》
違和感を覚えた。誰かの悪戯だろうか。
そう思いながらルームを開いた瞬間、イヤホンからくぐもった声が聞こえた。
「こんばんは。……静かに聞くことに慣れすぎると、ご自分の“音”を忘れてしまいますよ」
ゾッとしてイヤホンを外しかけた。
けれど、配信は無人だった。画面には、久美子を含めて三人の名前が並んでいた。
──その一番下に、《整備士》という名前があった。
誰とも会話していないのに、あの声は確かに聞こえている。
「どなた……ですか?」
「墨野福之助と申します。“心の整備士”をしている者です」
アイコンは灰色の初期設定のまま。
それなのに、その声だけが鮮明に存在していた。
「あなたのように“聞く側”に徹し続ける方は、心の中の言葉を閉じ込めてしまう。
言えないことは溜まり、音のない場所で腐っていきます」
「私は……話すのが、苦手なだけです」
「それは違います。“出し方”を忘れているだけです。……さあ、少し整備を。ギューッと──」
◇ ◇ ◇
その日から、久美子は話すようになった。
とはいえ、誰かと会話をするわけではなかった。
出勤途中の横断歩道で、帰り道の夕暮れに、エレベーターの中で。
ぽつり、ぽつりと、誰に聞かせるでもない言葉を呟く。
「風が冷たい」
「今日は静かだった」
「靴擦れ、少し痛むな……」
言葉は短く、意味は曖昧。
だが喋ることで、胸の奥に詰まった重さがほんの少しずつ抜けていくようだった。
◇ ◇ ◇
次第に、久美子の独り言は増えていった。
何をしていても、口が勝手に動く。
歯を磨きながら、洗濯物をたたみながら、トイレの中でも。
言葉が溢れ続ける。出さなければ、胸がざわついて仕方がなかった。
「今日も誰とも話さなかった」
「でも、声は出ているから大丈夫」
「誰にも届かなくても、私は、ここにいるから……」
そのつぶやきに返事はなかった。
けれど、彼女は満足そうに頷きながら、さらに続きを喋り始めた。
◇ ◇ ◇
テレビもラジオもつけない。誰からの連絡もない。
それでも、久美子は声を発し続けていた。
照明を落とした部屋の中、白い壁に向かって座り、
まるで誰かがそこにいるかのように、ひとりで話し続けていた。
「今日のスーパー、混んでた」
「お弁当、選べなかった。人が多くて」
「でも、もういいの。わたし、ちゃんと話せてるから……ね」
壁は何も言わない。だが、久美子は頷いた。
◇ ◇ ◇
その晩、マンションの廊下で、隣室の住人がふと漏らした。
「最近、あの部屋……ずっと誰かと喋ってるみたいなんだよね。返事はないんだけど」
静まり返った夜の中、部屋の奥からかすかな声が漏れていた。
話すことを取り戻した女の、誰にも届かない、ただの音。