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第3話 推しのいない日

 通勤電車の車窓に映る自分の顔が、やけに遠く感じられた。

 佐藤まゆ。

 新卒で入った会社も、気づけば何年目かになる。

 経理事務として働く日々は、単調で無味乾燥だった。


 誰かに強く求められるわけでもなく、かといって疎まれるわけでもない。

 職場でも家庭でも、人に迷惑をかけず、それでいて誰からも特別扱いされない。


 そんな彼女が今日まで無事に生き延びてこられたのは、“推し”の存在があったからだった。


   ◇   ◇   ◇


 舞台俳優・鳴神レイ。

 演技力、立ち振る舞い、言葉のひとつひとつ──

 まゆにとって彼の存在は、世界そのものだった。


 生配信を視聴し、SNSの更新を待ち、推し語りに耽る時間だけが、彼女にとって“生きている”という実感をもたらしていた。

 誰かと同じである必要はない。

 彼の舞台を観るたびに、まゆは「自分」を肯定されたような気がしていた。


   ◇   ◇   ◇


 しかし、その日を境に、世界は音を失った。

 鳴神が突如発表した《活動休止》の報せ。


 理由は語られず、再開の予定も明かされないまま、SNSは沈黙を続けた。


 ──どうして何も言ってくれないの。

 ──わたし、何を拠りどころにすればいいの。


 まゆはスマホを抱えたまま、ベッドに沈んだ。

 カーテンは閉じたまま。食事の時間も曖昧になり、夢とうつつの境界はぼやけていく。


 通知は来ない。声も聞けない。リプも、タグも、意味を失った。

 ただ、自分だけが時を止めたまま取り残されているようだった。


   ◇   ◇   ◇


 数日後、まゆはふと気づくと、カフェのカウンター席にいた。

 いつ来たのかも、なぜここに座っているのかも覚えていない。


 目の前のカップには、もう湯気のないコーヒーがなみなみと残っている。

 黒い液面に、照明の明かりだけがぼんやりと揺れていた。

 彼女はそれに口をつけることもなく、スマホの画面を見つめ続けていた。


「……おや。推しのいない日を、生き延びてしまった顔ですねぇ」


 隣から、落ち着いた──だが妙に沁み入るような声が届いた。


 まゆが顔を上げると、そこには黒いコートを纏った男がいた。

 整いすぎた顔立ち、隙のない身なり。なのに、どこか現実味に欠ける空気をまとっている。


「……誰ですか?」


「墨野福之助。“心の整備士”と申します」


 まゆは冗談かと目を瞬かせたが、男の目には揺るぎない確信が宿っていた。


「あなたの“推し”は、一時的に不在なだけです。しかし、心のネジというものは──仮締めのまま長く放置すると、抜けてしまうこともある」


 彼は、胸ポケットから小さなカードを差し出した。


【本日の推し:七海しんじ(歌い手)】

《“推し”は、今日を生きるための構造部品なのです》


「……これ、冗談ですよね?」


「冗談ではありませんよ。あなたに必要なのは、“心を支える定期整備”です。代替ネジのご案内ですな」


 意味がわからないまま、まゆはスマホを操作し、提示されたQRコードを読み込んだ。

 その瞬間、七海しんじのタイムラインが開き、彼の優しい声が流れ出した。


「……あ……」


 ほんの少し、胸の空洞に温度が戻った気がした。


   ◇   ◇   ◇


 翌朝、まゆのスマホに通知が届いた。


【七海しんじ:今日も見てくれてありがとう】

【#ななしん最高】

【限定配信、今夜20時から!】


 画面を見つめる目に、うっすらと光が戻る。

 まだ完全ではない。けれど、もう止まったままではいられない。


 ベッドから起き上がる。髪をとく。洗顔をする。

 そうして、まゆは鏡の中の自分に微笑みかけた。


「……行こう」


   ◇   ◇   ◇


 職場に向かう足取りは軽かった。

 同僚の雑談にも適当に相槌を打ち、昼休みにはイヤホンをつけて七海の歌を聴く。

 SNSの投稿に「推しが尊い」と書き込むと、それだけで自分の存在が許されるような気がした。


 夜、自室に戻ると、ベッドの上で画面を見つめる。

 七海の声が流れ、まゆの目は輝きを取り戻していく。


   ◇   ◇   ◇


 それからというもの、まゆのスマホには毎朝“今日の推し”が届くようになった。


 今日は歌い手、明日は配信者。週末は舞台俳優、月曜はボイスドラマのキャラ。

 それぞれに応じて、“適切な推し活”が墨野の名義で自動的にスケジュールされる。


【8:00 配信視聴】

【12:30 ファンアート検索】

【21:00 タグ付き投稿(画像・メッセージ)】


 まゆは迷わなかった。推しがある限り、今日を生きられるから。

 彼らは皆、愛すべき存在だった──どの“推し”も、彼女にとって特別だった。


   ◇   ◇   ◇


 ある日、後輩に聞かれた。


「佐藤さん、今の推しって誰ですか?」


「えーと……七海しんじ? あ、でも昨日の人だったかも。今日は……うん、たしか新人Vの……なんだっけ……」


 名前が曖昧になっていた。記憶が交錯し、言葉が濁る。

 それでもまゆは笑っていた。ちゃんと“推している”自分を信じたかった。


   ◇   ◇   ◇


 ある朝、スマホに通知が来なかった。

 画面は静まり返っている。音も、光も、何もない。


 まゆはベッドの上で固まった。目は見開かれたまま、焦点を失っていた。


「……おかしいな。……今日の、推し……は……?」


 立ち上がれない。話しかけられても反応できない。

 まゆはそのまま、命令を待つ機械のように、無音の画面をじっと見つめていた。


   ◇   ◇   ◇


 隣室の住人が、廊下でつぶやいた。


「最近、あの人……誰とも話してないよね」

「いや……話してるよ。毎日違う名前を、誰もいないのに呼んでる」


   ◇   ◇   ◇


 まゆの表情は穏やかだった。

 不安も焦りも、怒りも痛みもない。

 あるのはただ──今日という日を、誰かを“推す”ことで満たすという使命だけ。


『推しがいれば、生きていける。──推ししかいなければ、私である必要もない』


 幸福に包まれていたのは、彼女ひとりだけだった。

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