第一章 ⑥
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真夜中。時景は隣の部屋にいる琴乃の気配を窺う。とても静かだ、きっともう眠りについているに違いない。そう確信してから、彼はある封筒を手に取った。この中身はまだ彼女には見られてはいけないのだ、時景は細心の注意を払いながら封を開けた。中には新聞記事と『ある事件』に関する警察の捜査資料が入っている。時景は、これを持ってきた今日の来客を思い出していた。
二人いた来客のうち、背広を着ていた男の名は西史弥。彼は時景の大学時代からの友人で、今は太陽新聞文化部に勤めている。連れてきたのは彼の新聞社の後輩である島村三郎。二人は帝都から少し離れたところで暮す時景のために「ある事件」の最新情報を持ってきてくれる協力者だ。
しかし、それらは琴乃に見つからないようにひた隠しにしていた。彼らがやってくる時はマサと協力して琴乃を外出させていたのだが……まさか鉢合わせしてしまうとは、もっと気を配っておくべきだったと時景は悔やむ。
もらったばかりの資料をひとつひとつ帳面に貼り、彼は事件を振り返る。これらはすべて「ある未解決事件」に関するものだった。事件が発生したのは昨年――大正8年10月だ。その頃の新聞記事には煽情的な見出しばかりが並んでいる。
『実業家夫婦惨殺される』
『使用人も皆殺し』
『宮園家惨殺事件の犯人は?』
『生き残った一人娘は意識不明』
『犯人未だ見つからず。警察の怠慢か?』
『天涯孤独の宮園家令嬢はサナトリウムへ?』
『宮園家資産の行方は』
その「生き残った宮園家令嬢」の写真も帳面に貼っていた。時景はそっと写真を撫でる。まるで愛しむように――そこには、華やかな晴着を着た琴乃の姿があった。真正面を見据える表情は硬く、瞳の色も暗く見えるが、それは間違いなく琴乃だ。
宮園家惨殺事件。そのとても無残な殺人事件で未だ解決していない。そしてこの事件こそ、琴乃が記憶を失うきっかけにもなった事件だ。
史弥と三郎が帰ろうとしたとき、時景も文房具屋に行こうと駅の方面まで一緒に歩いていった。その時史弥が話していたことを彼は思い出す。
「お前、まだ奥さんに何も話していないのか?」
史弥の言葉に時景の表情がわずかに曇る。付き合いの浅い三郎には伝わっていなかったが、友人である史弥にはそれが彼の否定であることはすぐに分かった。史弥は呆れるようにため息をつく。
事件のことを話す役割は、現在彼女の「夫」を名乗っている時景にある。しかし、彼は彼女を事件から遠ざけていた。喧騒から少し離れた町で、まるで閉じ込めるような生活を送らせている。それは彼に「思惑」があるためだったが、史弥はそれをよく思っていなかった。時景は今まで何度も「奥さんに話をした方が良い」と史弥にせっつかれている。
「何も知らないことが奥さんの幸せとは限らないんだぞ」
それは時景だって重々承知だ。琴乃のこれからの生活を案じるならば、自らを「夫」であると称す前にすべてを話すべきだったのだ。しかし、彼はそうしなかった。できなかったのだ。
時景は同じ問いを、ずっと心の中で繰り返している。
のんきに歩いている三郎は「何か兆しがあったらすぐに連絡くださいね! 西さんにすぐ取り次ぐので」と拳を握っていた。
兆し――琴乃が自身の記憶を取り戻す日は、必ずやってくる。しかし、記憶を失うほど強い衝撃を受けた彼女にとって、真の幸せは記憶を取り戻すことなのだろうか。その問いに対する答えはまだ見つからない。
もし彼女が過去を思い出す日がやってくるならば……時景はその前に事件を解決したいと思っていた。彼女の家族を殺めた犯人を見つけ出したい、それこそが彼女の幸せなのだと信じていた。
帳面がぐしゃぐしゃになるくらい強く掴み、時景はぎゅっと目をつぶる。彼の瞼の裏には、いつだって琴乃の姿がある。美しく透き通った瞳、凛とした強さ、美しさ。出会った時、愛しいと想い始めた時の姿が色鮮やかに焼き付いている。彼女のためなら何でもする、何者にもなってやる。琴乃の存在は、時景にとって生きる道しるべなのだ。
「……琴乃さんの幸せは、俺が必ず守る」
彼の誓いの言葉は、夜空に浮かぶ月だけが聞いていた。




