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第一章 ⑤


 空はすっかり濃紺に埋め尽くされ、眩しく輝いていた太陽は西の端っこに沈みかけている。鮮やかな朱色が徐々に力を失っていくように琴乃には見えた。なんて寂しい色なのだろう。


「楽しかったですね。また行ってもいいですか?」


 琴乃は時景に尋ねる。彼は「ダメだ」と言えなかった。琴乃が浮足立っているのは見ただけで分かる。

 この帝都から少し外れた町で彼女たちが暮し始めて半年以上。琴乃の娯楽といえば読書と鉢植えの手入れしかなく、話し相手は時景とマサだけ。きっと年の近い少女を話す事ができたのが嬉しかったに違いない。時景は長く息を漏らしてから、彼女の言葉に頷く。


「行くとしたら、必ず俺かマサさんと伴うこと。いいですか?」

「はい。ありがとうございます、先生」

「あと、もう一つ」


 どうしても琴乃に言わなければいけないことがあった。時景は語気を強める。


「たとえ人助けと言えど、あんな危険な真似は二度としないでほしい」


 時景は先ほどのことを思い出す。悪漢に腕を掴まれている琴乃を見た時、どれだけ肝が冷えたか。あの光景が蘇ると時景の背筋が冷たくなり、胸がざわついてしまう。時景の言葉が注意というよりも懇願に近かった。琴乃は時景を見上げる。その表情は全く怒っていない。先ほど感じ取った郷愁はもうなく、寂しげに見えた。共に暮らすようになってから何度も見た、この寂しそうな表情。琴乃は居たたまれなくなって、頭を下げる。


「ごめんなさい……」

「分かってさえくれたらそれでいい。ほら、帰りましょう」

「え、せ、先生?」


 時景が琴乃の手を取り、歩き出していた。夕刻とはいえまだ人通りがある。公衆の面前で男の人と手を繋いで歩くなんて……! すれ違う人たちが珍しいものを見るような目で琴乃たちを見てくる、とても目立って恥ずかしい。

 それ以上に、手のひらから伝わってくる彼の体温に琴乃は戸惑っていた。そのせいで彼女の体も熱くなっていく。琴乃は戸惑いながら、ぎこちなく彼の手を握り返した。密に触れ合うその手は、物語を生み出す、琴乃が憧れる手。遠くの存在だと思っていた彼の手は今、万年筆ではなく琴乃の体と繋がっている。まるで特別な存在になれたみたいで、喜びがふつふつと湧き上がる。


「本当にびっくりしたんだ。琴乃さんの身に何かあったら俺はどうしたら、と……」


 時景がたまたま通りかかっていなかったら、もしかしたら彼女は連れ去られていたかもしれない。悪い想像は、琴乃の手を取っている今も時景から離れてくれない。彼の表情が曇る。琴乃はすぐにそれに気づいた。曇るのと同時に、彼の指先も冷たくなる。それぐらい彼に心配をかけてしまったなんて琴乃は全く考えてもいなかった。嬉しさや恥ずかしさをかき消すように、申し訳なさが一気にこみ上げる。


「……ごめんなさい」


 いたたまれなくて、琴乃は前を向けなかった。草履のつま先ばかり見てしまう。時景はもう少しだけ手の力を込めた。


「いいよ、もう」


 それは、突き放すようなぶっきらぼうな言い方ではなかった。まるで暖かく見守られているような感覚。琴乃は再び顔を上げる。目が合うと、彼は安堵の息を漏らした。時景は穏やかな表情で琴乃を見つめている。けれど、琴乃は彼が見ているのは「自分」ではないような気がしていた。彼はきっと「自分」を通して「過去の琴乃」を見つめているに違いない。今の琴乃にはそんな気がしてならない。羨ましい、心の底からそう思う。彼にこんな表情をさせる過去の自分が。


 過去の自分と言えば、琴乃はあることを思い出す。テルが話していた「行方知れずの令嬢」のことだ。克治に遮られてしまい聞けず仕舞いだった。もしかしたら自分に関係がある話かもしれない……聞いておけば良かったという気持ちと、まだ真実を知るには勇気が足りないという気持ちが心の中で入り混じっていて、前に踏み出せないままだった。


 家に辿り着くまで、さまざまな考えが錯綜しているのか、時景も琴乃も一言もしゃべることはなかった。



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