最終章 ⑤
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ロマン堂での退院祝いも終わり、琴乃と時景はようやっと帰宅していた。そこにマサの姿はない。琴乃はロマン堂でマサと話したときのことを思い出していた。
「近くに家を借りて、しばらくはそこから先生のお宅に通うことといたしました。借家を見つけ引っ越したのもつい昨日のことで……琴乃様にお伝えするのが今になってしまい、大変申し訳ございません」
「そんな! どうして今までみたいに一緒に暮らしてくれないの?」
琴乃は問いかけるが、マサははっきりと答えてはくれない。なんだか複雑そうな顔をしているマサに代わり、史弥は口を開いていた。
「結婚したての夫婦の家――しかもあんなに狭い家で――夜まで一緒なのはなんだか気まずいってことですよ、奥さん」
琴乃の顔が、まるで沸騰したかのように赤くなる。心当たりはいくつもあり、恥ずかしさのあまり額からダラダラと汗が流れてくる。
「お二人の邪魔をしませんので、どうぞ気兼ねなく」
「あの、あのっ!」
慌てふためく琴乃を見て、マサと史弥は微笑ましく笑っていた。琴乃は肩をすくめ、小さく呟く。
「でも、寂しくなるわ……マサがいないと」
「昼間はおりますよ。安心してくださいませ」
「そうそう。それに、時景と奥さんが仲良いのなら、またすぐにでも人手が必要になるようになりますよ」
「はあ……?」
いまいち史弥の冗談を理解できずにいる琴乃を見て、史弥はまた笑っている。余計な事しか言わない史弥の後頭部に時景がげんこつを落とす。しかし、史弥は怯まない。
「時景も可愛い若奥さんに夢中になってないで原稿を書くんだぞ。僕の出世がかかっているんだからな」
「うるさいな、お前は本当に」
時景はため息をついて史弥の言葉を受け流すが、琴乃は恥ずかしさやいたたまれなさでしばらくの間縮こまっていた。
帰ってきた今になってもまだ恥ずかしさを引きずっているような気がする、琴乃はほんのり熱くなっている両頬に手を当てる。時景は荷物を抱えたまま引き戸の鍵を開け、琴乃に先に入るよう促す。その時、彼は「あ」と声を上げていた。
「そうだ。琴乃に話しておこうと思ったことがあったんだ」
「話? 何でしょう?」
「こっちに」
時景は荷物を玄関に置き、琴乃の手を取り庭が良く見える縁側に導く。
「見てごらん、鉢植え」
「……蕾が……!」
それが目に飛び込んできたとき、琴乃の目が大きく見開かれていた。その瞳はいつも以上に輝いているようにも見える。琴乃は庭に降り、鉢植えに近づいた。葉が伸び、蕾は膨らみ、赤い花びらが見え始めている。一年以上大切に育て続けていた花が、ようやっと咲こうとしている。
「嬉しい。私がいない間に育ててくれていたのですね」
「あぁ。珈琲豆の出涸らしを肥料にすると良いって聞いてマスターからもらって、土に混ぜたんだ。あとは琴乃みたいに水を上げて……」
「旦那様の方が植物を育てるのが上手いのかもしれません」
琴乃は蕾に視線を合わせるように屈み、微笑んでいる。時景は彼女の体が冷えないように室内用に用意してあった半纏を肩にかけた。
「その花、名前は何というのですか?」
琴乃が帰ってきたら聞こうと時景は思っていた。その質問に琴乃は満面の笑みを見せながら返す。
「天竺葵です。私が一番好きな花。もうずっと前、父と西洋植物園に行ったときに見て、家の庭に植えたいとお願いしたんです。父はその後すぐに球根を用意してくれて、この鉢植えで育てていたのですが……」
時間はかかったけれど、ようやく咲くみたいだ。でも、球根を買ってきてくれた父と天竺葵の花を見たことがなく楽しみだと話していた母は、もういない。両親に見せてあげたかったと琴乃は悔しくなり、目の奥が痛んだ。琴乃は振り返り、縁側に座る時景に近づいた。
「旦那様、お願いがあります」
「お願い? 琴乃のお願いごとなら、どんなことだって叶えるよ」
「……この家で、両親と事件で亡くなった使用人たちを弔ってもよろしいでしょうか?」
琴乃は勢いよく頭を下げたが、すぐに時景にやめるよう促される。琴乃が恐る恐る彼を見上げると、時景は深く頷いていた。
「琴乃の家族なら、俺にとっても家族だから」
「……ありがとうございます」
琴乃の頬に涙が一筋流れていく。彼女はそれを指先で拭い、空を見上げた。濃紺の空に月が浮かんでいる。満月より少し欠けているけれど、それは美しい輝きを放っていた。
時景は月の光を浴びる琴乃を見つめる。ずっと美しいと思っていた彼女が、今も自分の隣にいる。なんて幸せ者だろうと思いながら、彼は琴乃の肩を抱いていた。
「もっと両親に怒られる予定だったのに。駆け落ちのことで」
理想の形とは全く違う、駆け落ちの果て。これから自分はあの月のように、少し欠けてしまった部分を思いながら生きていくのだろう、と琴乃は思う。でも、大丈夫。隣には最愛の夫がいる。彼がその欠けた部分を埋めてくれるに違いない。琴乃は自分の肩を抱く夫を見上げる。彼は琴乃の視線に気づき、優しく微笑み、口を開く。
「あと、もう一つ。琴乃に話しておくことがあるんだ。きっと喜んでくれると思う」
「ふふ。何でしょうか」
「新聞の連載が決まった」
「本当ですか!」
その大声に時景はびっくりしてわずかに後ろにのけぞっていた。琴乃は口を両手で押さえ、今度はとても小さな声で「ごめんなさい」と呟く。
「西さんの新聞社ですか?」
「いや、違う会社だ。……鷹栖さんが話を持ってきてくれたんだ。君の婚約者だった」
「勇二郎さんっ?!」
また驚きのあまり大きな声を出してしまった琴乃。まさか、勇二郎と時景が知り合いだったなんて全く思いもよらなかったのだ。
「君が退院する少し前に。前祝だと言って」
これから二人で暮らしていくならば、仕事の依頼はどれだけあっても困らないだろうと言っていた。これからどんどん仕事の話を持ってきてくれるそうだ。正直、時景にとっても非常にありがたい話だった。琴乃の元許嫁というだけで毛嫌いしていた彼だったが、これから少しは頼ってもいいかもしれない。
「今度勇二郎さんのところにお礼に伺わないと」
「一緒に行くよ」
「いいえ、旦那様は執筆に専念してくださいませ。その方が勇二郎さんも喜んでくれると思いますから。それで、いつからですか?」
「今連載されている作品が完結したらと言っていた。年明けごろから、毎週日曜日に」
「ふふ、とても楽しみです」
花がほころぶみたいな笑顔。時景は堪らなくなって彼女を抱き寄せた。琴乃も彼の背中に手を回す。しばらくお互いの体温と鼓動を感じあうように二人は抱きしめあう。
「……聞きたいことがあったんだ、琴乃に」
「どんなことでしょう?」
二人は縁側に座る。ぴったりとくっつき、時景は琴乃の肩を抱く。琴乃は彼の空いた手を取り、自分の指を絡ませていた。
「君は、いつ、俺を好きになったんだ?」
「……言えません! 恥ずかしすぎます……」
頬を赤らめる妻がかわいらしく、時景はその紅色に口づけを落とす。琴乃はくすぐったくて少し笑った後、観念したように長く息を吐いた。
「初めて会った時かもしれないし、女学校で出会った時かもしれない。一緒にお話ししている内に、徐々に好きになったのかもしれない……私があなたへの好意に気付いたのは『恋慕』の駆け落ちする二人の話を読んだ時だったけれど……そのずっと前から、心の中に種はあったのだと思います」
琴乃は繋いだ手に力を込める。
「今ならはっきりとわかります。あなたは私の、運命の人だったのだ、と。あなたに出会うために産まれ、あなたと共に生きていく。旦那様なしの人生なんて、考えたくもありません」
「俺もだよ。……もしあの時琴乃が死んでしまっていたら、俺は拳銃で自分の頭を打ちぬいていたに違いない」
時景の言葉は震えていた。琴乃は手を離し、強く彼を抱きしめた。時景の腕も琴乃の背に回り、力強く琴乃を抱く。この人が欠けてしまったとき、その時は自分の人生も終わるときだ、と伝えあうように。
わずかに離れて、時景は琴乃の頬に触れた。二人は見つめあう。琴乃の透き通った瞳に時景の姿が映りこむ。たったこれだけのことなのに、彼は今まで感じたことがないほどの幸せを感じていた。触れ合えるほどそばにいる。二人で生きていく。それはきっと、琴乃も同じに違いない。彼女は柔らかく微笑んだ。
時景は琴乃のほつれた髪を耳にかけ、彼女の唇に触れる。琴乃は目を閉じて、彼を受け入れる。触れ合うだけの口づけを交わす。これは、誓いの口づけだ。この命ある限り、互いのために尽くす、と。
「……不束者ですが、これからどうぞよろしくお願いします、旦那様」
「こちらこそ末永く。俺のお嫁さん」




