最終章 ③
勇二郎が帰っていった後、病室で一人きりになった時景。勇二郎に言われた通り髭を剃って顔をさっぱりさせると、頭の中も澄み切っていくような気がした。
琴乃の細くなった手を握りながら、時景は駆け落ちしようと約束したあの日のことを思い出していた。あの日も、三日月が空に昇っていた。その光は優しく、まるで二人の門出を祝うように輝いていたのをよく覚えている。琴乃の手は氷のように冷たい。時景は自分の体温を彼女に移すように強くその手を握った。
幸せだったのだ、彼も。駆け落ちしようと決めた時、一生二人で生きていこうと決めた時、彼女と想いが通じ合った瞬間……今なら大空すら飛べそうだと彼の心は高揚した。
でも、それ以上に、あの家で暮らしたこの一年の方がずっと幸せだった。彼女がそばにいるだけで、自分は果報者なのだと思った。琴乃と自分、二人で一つの存在なのだ。この世界のどこを探しても他にはいない、時景の対となる存在が琴乃だったのだと確信できた日々。
あの日々を取り戻すためなら、どんな神にだって祈ろう。
「再び記憶を失っていても構わない。俺がまたすべてを教えるから」
誰もいない病室、時景は意識のない琴乃に語りかける。それは彼の願いであり、祈りだった。
「俺のことを忘れてしまってもいい。あなたさえ生きていれば、俺は何も望まない」
心の底からの願い。
「あの家でまた一緒に暮らすことができたら、もう何もいらない。仕事を失っても構わない、だから……」
時景はやっと思い出していた。呪いをかけられて眠ってしまった姫君がどうなったのか。彼女の元に運命の相手が現れ、彼が口づけをすると姫は目を覚ました。時景は彼女の手を握っていない方の手で、琴乃の唇を撫でた。乾燥していてわずかに硬くなっている。今、口づけをしたら目を覚ますだろうか?
「お願いだから、目を覚ましてほしい。……君は俺と共に生きていくと言っていたんだろう? 俺はそれを信じているから」
彼はわずかに微笑む。眠っている彼女に口づけをしていいものか、など少年のようなことを考えてしまう。
その時、時景は異変に気付いた。握っている琴乃の手に、わずかに力がこもったのだ。
「……琴乃?」
時景は呼びかける。再び手に力がこもる。彼女は眉を顰めていた。祈りが届いたのか、彼が信じた奇跡がすぐそこまで来ている。それを手繰り寄せ捕まえるように、時景は大きな声で彼女の名前を呼んでいた。
「琴乃――!」
うっすらと、琴乃の瞼が開かれた。琴乃がゆっくり目覚めようとしていることに時景も気づき、何度もその名を繰り返す。奇跡よ起これと祈りながら、何度も。
彼が自分を呼んでいる――真っ暗闇の中をぼんやりとただ浮かんでいた琴乃は、遠くから聞こえる愛しい人の声に気付いた。呼んでいるから行かなきゃ、でも体が上手く動かない。もどかしくて、悔しくて、涙がこみ上げてくる。琴乃はそれを拭い、真正面を見据える。目の前は真っ暗闇だったはずなのにわずかに光が見えてきたのだ。その光こそ彼だ、と琴乃は無我夢中になって、それで……。初めに動いたのは手だった。その光を掴むように何かを握る。そして、目に力を込めて、ゆっくりと開いていった。目の焦点が徐々に時景に合っていく。ぼんやりと聞こえていた自分の名前が、次第にはっきり聞こえてくる。返事をしなきゃ、私は、彼をどう呼んでいたっけ……?
「……せ、」
琴乃は「先生」と呼ぼうとして、そこで止めていた。掠れているし力が入らなくてうまく声が出ない。けれど、今彼に伝えたい言葉は「それ」ではないような気がした。ずっと言いたいと思っていた呼び方がある。琴乃はわずかに首を時景に向けた、表情の変化に乏しい彼の目からは大粒の涙がいくつも溢れている。あぁ、この姿も愛しくて仕方ない。
「……だんなさま、とおよびしても?」
時景は泣きじゃくりながら、何度も頷いていた。




