最終章 ①
琴乃の心臓は諦めが悪かったのか、わずかに脈を打ち続けていた。克治が呼んだ警察によって大急ぎで病院に運ばれて、すぐに手術を受けた。しかし体内に銃弾が残っていたため手術は難航し、出血量もすさまじいものだった。何時間にも渡って行われた手術を担当した外科医は話す。
「今、生きているだけでも奇跡ですから。多くは望まないでください」
きっとこのまま、目覚めることはないでしょう。医師は「夫」である時景に告げていた。銃弾を取り除くことはできたが、肺は損傷し、血も流し過ぎている。数日もてばいい方だろう、周りの人間が後悔をしないようにできるだけ見舞いに来させた方がいい。よりよい最期を迎えられるように。
今、この時間は、琴乃のためではなく置いていかれる「我々」のためにあるのだ、時景は医者の言葉を聞き、冷たくなった自分の両手を握り合わせていた。
医者が話していた数日は瞬く間に過ぎた。数日どころか、あっという間に事件から数週間経った。幸か不幸か、琴乃の様子に変化はない。
毎日病室にやってくるマサは、宮園家事件が起きた時以上に悲嘆にくれていた。
「本当に、琴乃様はもう目覚めないのでしょうか……」
彼女は三途の川のほとりで渡っていく人々を見守っているのかもしれない。マサはその姿を想像しては一日中泣いている。
時景はただ彼女のそばで、うつろな目で彼女を見つめる日々を送っていた。髪はぼさぼさで髭が伸び、まるで別人のようにも見える。
「……先生、こちらを。琴乃様と先生のお着替えです」
マサが風呂敷包みを時景に差し出す。時景はそれを一瞥しただけで返事もしない。マサは仕方なく近くの卓に置く。
「必要なものがあれば、いつでもおっしゃってください。……それでは。お嬢様、また今度来ますからね」
布団から出ている琴乃の手を取り、冷えないよう仕舞ってからマサは帰っていく。時景はただぼんやりと、去っていくマサを見ていた。マサと入れ替わるように史弥もやってくる。
「大丈夫か、お前?」
「……あぁ」
弱弱しい時景の姿を見て、史弥は肩を落とす。
「奥さんの様子は? 変わりはないか?」
時景がわずかに頷いたのを見て安堵したのか、史弥は息を漏らした。彼は鞄から封筒を取り出し、時景に渡す。
「仕事だ」
「……こんな時に仕事ができるわけないだろう?」
余力を振り絞ったのか、声はしゃがれている。彼の心を慮ると、確かにその通りだ。しかし、現実を見たらそうは言っていられない。
「奥さんの入院費用だって馬鹿にならないだろう? それに、こういう時は手を動かしていた方が気が紛れる」
史弥はそう言って時景に封筒を押し付けている。そして壁にもたれ掛かり遠くを見つめる。ぼんやりと座り込んでいる時景に史弥は声をかける。
「お前、新聞は読んでいるか?」
時景は首を横に振る。
「三郎……島村三郎があの後どうなったか知らないのか?」
時景の反応はない。史弥は勝手に話し始める。あの日から時景は琴乃のそばに張り付いていて、外の世界の出来事は何も知らないのだろう。あの後、何が起こったのかを。
克治が呼んだ警察によって三郎は逮捕された。観念したのか、借金取りから逃れることができて安心したのか、取り調べには素直に応じているらしい。宮園家事件についても全面的に犯行を認めた。宮園家の主人に借金と賭博場への出入りを咎められ、援助を打ち切ると言われ、主だけではなく家族たちを逆恨みしてしまい犯行を計画したらしい。拳銃や毒物をどこから手に入れたのかもすべて打ち明けていた。殺害方法を変えたり火を放ったのは犯人像を絞りにくくするため、らしい。だから琴乃を襲った時も持っていた銃ではなく灰皿を使ったそうだ。
宮園家事件だけではなく、克治への傷害についても犯行を認めた。宮園家事件の犯人であることがバレそうになったため、殺害を企てたそう。琴乃の誘拐は身代金目的で、金を得たら彼女を殺すつもりであった、とも。
彼を担当することになった弁護士が話すには、結果があまりにも重大であるため、極刑を免れることは難しいかもしれない、とのことだった。
「……僕も何で気づかなかったかな。アイツが全ての犯人だったということに」
史弥は、後輩として面倒を見ていた三郎が凶悪犯であったことに気付いていなかった。しかも、何も知らなかったとはいえ宮園家事件の資料を私的に集めては三郎にも見せていたことを新聞社から咎められていた。まさか犯人が捜査資料を目にするとは誰も思っていなかっただろう。新聞社も警察も、もちろん史弥も。しかし、三郎は常に最新情報を目にしていたおかげで、事件の捜査からかいくぐることができていたのだ。
「社会部も政治部も一気に遠のいたよ」
そう話す史弥の横顔は、もう出世も何もかも諦めきったような表情だった。彼は「また来る」と言って、病室から出て行った。時景は生気のない瞳で引き戸を見つめていた。
この数週間、様々な見舞客がこの病室を訪れていた。無事に放免されたテルと克治、事件のことを知り慌ててやってきた千代と梅子。誰が呼びかけても、琴乃は目を覚まさなかった。テルは子どもみたいに泣きじゃくり、千代と梅子も涙を流していた。千代は夫に事情を話しているらしく、何かあったら協力を惜しまないと力強く時景に言っていた。
医者が話すには、まもなく傷口がふさがるらしい。でも傷がふさがっても琴乃が目覚めないなら、意味はないのだ。
時景は少し痩せた琴乃の頬に触れながら、大学生の時に読んだ西洋の物語を思い出していた。呪いをかけられて眠りについた姫君は、どうやって助かったのだっけ? 肝心のオチを思い出せない。
いっそこのまま、彼女が一生眠ったままなら……傷がふさがったらすぐに退院してしまおうか? と時景は思い始めていた。彼女がそばにいてくれるなら、病院でも家でも、どこでもいい。彼女が眠ったままでも生活ができるよう家を整えて、彼女の世話をしながら彼女が喜ぶような作品を書いて……一生、感想が聞けない生活かと思うと鼻の奥が痛んだ。
しかし、そのためにもまず金が必要だ……と時景は史弥が持ってきた封筒を開けた。短編作品の依頼だ。書こうと思ったけれど原稿用紙どころか万年筆も手元にない。明日マサが来たら頼もうか、そう思ったとき、病室の引き戸が開く。現れたのは意外な人物だった。




