第七章 ③
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身代金の受け渡しにはマサが行くこととなった。マサが率先してその役を担うと言ってきかないのだ。
「三郎のことです。女の私が行ったら舐めてかかってくるに違いません」
彼女は書生だった三郎の面倒を見ていたから、彼の人となりはよく知っているだろう。その面では頼もしさはある。問題は金をどう工面するかだったが、克治が冴えた案を出してくれる。
「作家先生のお宅なら、紙の束は売るほどあるんじゃありませんか」
「あるが……そんなものを売っても身代金の足しにはならない。一万円だぞ、一万円」
「何も本物の金を入れる必要はないじゃないですか? 偽の札束を作ればいいんですよ」
時景も史弥も、マサもぽかんと口を開ける。偽の札束なんて思いつかなかった。この中で一番悪知恵が働くのは克治のようだ。
「原稿用紙や古新聞を紙幣と同じ大きさに切って、一枚目と最後だけ本物の金にするんです。そうしたら、張りぼての札束ができるんですよ」
「でも、偽物だってバレたら琴乃が……」
「バレる前に、僕たち三人で三郎を捕まえればいいんだよ。その場でもいいし、逃げられたら追いかけたらいいだけさ。アイツさえ捕まえたら、全てわかるのだから」
琴乃の現在の居場所も、宮園家事件の真相も。捕まえることさえできたらすべてがわかるのだ。絶望の夜を過ごすのだと思っていたが、ほんの少しだけ光がさし込んできたかのように時景には思えた。その晩、四人は偽物の札束つくりに精を出して、一睡もしないまま四人は受け渡し場所に向かっていた。
三郎が身代金の受け渡し場所に指定したのは、宮園邸から最も近い駅。あの日、時景と琴乃が待ち合わせをした駅。まさかこんな形で再び訪れる日が来るとは、と時景は時計を見ながら思う。まだ早朝と言ってもいいくらいだ。仕事に向かう人やどこかへ出かけようとしている母子連れで駅はにぎわっている。しかし、この中に自分ほど緊張している者は他にいないだろう、と時景は思った。
受け渡しの時間は八時。刻一刻と迫っている。時景は時計を睨みつける。
「おい、時景、お前も隠れろ」
「あ、あぁ。マサさん、よろしくお願いします」
「えぇ、分かっていますとも。皆さんも、どうぞよろしくお願いします」
偽の札束で膨らんだ旅行鞄を持ったマサを時計の真下に残し、時景は植込みに身を隠す。史弥は正面の死角を取り、克治は時景とは正反対の植え込みで、三人共今か今かと頭を覗かせながら待ち構えていた。時景は時計を見る。秒針がいつも以上にゆっくりと回っているように見えて仕方がない。
焦りと不安で、時景の額には脂汗が滲む。マサも何度も時計を見上げたり、旅行鞄を持ち直したり、とても忙しない様子だった。史弥を見ると目が合う。彼は腕時計を見て、まるで「もうすぐだ」と言うように口をパクパクと開けていた。そうだ、もうすぐなのだ。時景はいつでも飛び出せるように足に力を込めた。
時計の鐘が鳴った。八時だ。
三郎の姿が見えたら、三人で飛び掛かる。何度も頭の中で想像を繰り返したから、きっと体はすぐに動くはずだ。何も起きなければ、そう、何も起きなければ……。
――……パンッ!
奇妙な破裂音が聞こえた。時景は無意識にマサから目をそらし、音が聞こえた方向に顔を向けてしまった。すぐに何度も連続して同じ破裂音が聞こえてきた。それとほぼ同時に、人々の叫び声が聞こえてきた。
「爆弾だ!」
「違う、鉄砲だ!」
駅の中から聞こえた破裂音、その正体は分からない。分からないからこそ、群衆は怯え混乱し、まるで蜂の巣をつついたように駅から多くの人が飛び出してきた。右往左往に逃げ回る群衆。時計の真下に立っていたマサの姿が見えなくなってしまう。克治はマサを見失わないように目を凝らすが、彼のすぐそばで幼い子供が転んでしまう。克治はあたりを見渡すが母の姿はどこにもなかった。きっとこの混乱のせいではぐれてしまったに違いない。痛みと、母親とはぐれてしまった悲しみからか子どもは泣き出してしまった。克治は両眉を寄せながらその子を抱きかかえ立たせていた。
「大丈夫だ、これくらいの傷。母ちゃんが見つかるまで、オッサンと一緒にいよう」
克治が子どもをあやしているうちにマサの姿は完全に見えなくなっていた。逃げ惑う人が多く、この中から三郎を見つけるなんて困難だ。克治は時景と史弥に託すほかなかった。
しかし、時景も史弥も群衆の波に巻き込まれていた。彼らは人込みをかき分け、その流れとは逆流するようにマサに近づいていく。
「マサさん!」
時景が叫ぶ。視線の先にいるマサは旅行鞄を離さないように抱きしめていた。しかし、その背後から音もなく黒い頭巾を被った男が現れた。マサの襟をつかみ、彼女を引き倒して旅行鞄を奪おうとしている。史弥も時景も急ぐが、中々近づけなかった。
「……三郎!」
決して旅行鞄を渡すまいと抗うマサは、とっさにその男の名前を叫んでいた。男は驚き、マサから手を離してキョロキョロと周囲を見渡す。そして時景と史弥の姿を見つけて、慌てるように逃げ出そうとしていた。時景は男を捕まえようと手を伸ばす。襟のあたりに指が触れるが、あとちょっとのところで掴むこともできず……男は走って逃げ出していた。
「時景、追え!」
史弥は叫ぶ。言われなくても分かっていると言わんばかりに、彼は男を追いかけていた。
「女中さん、大丈夫かい?」
男は逃げ去り、群衆は慌てふためいている。騒動に気付いた巡査たちが慌ててやってきた。その前に、史弥はマサに声をかけていた。彼女は力が抜けたように座り込み、表情は暗い。その傍には旅行鞄が落ちていた。克治も幼子の親が見つかったのか、ようやっと追いつく。
「マスターは時景を追ってくれ。僕は警察に事情を話して……」
その言葉にマサはハッとして史弥に掴みかかった。
「ダメです、おやめください! もしお嬢様に何かあったら、あなたはどう責任を取るつもりですか!」
「大丈夫だよ、女中さん。時景が追いかけていったから。今はアイツを信じよう」
マサの手から力が抜け、すとんと落ちていった。克治は史弥を見て頷き、時景が走っていった方向へ駆け出していく。
「……あの男は、やはり三郎でした。あの不安そうな眼は……間違いありません」
「そうか……」
「お嬢様の居所を聞き出そうとしたのですが……」
「いや、大体の場所なら見当がつく」
「本当ですか?」
「あぁ。アイツは、きっとあそこに行っているに違いない」




