第七章 ①
「しかし、こんな大金を要求するなんて……なんとも図々しい犯人だな。明日の朝八時までに一万円とは……」
史弥が脅迫状を見ながらそう呟いた瞬間、マサが勢いよく起き上がった。周囲を見渡し、時景と史弥しかいないことに気付き、彼女は叫び声をあげる。
「英先生、琴乃様は!?」
「女中さん、急に起き上がらない方が……」
史弥はマサに寝るよう促すが、それも聞かず彼女は頭を抑えながら立ち上がった。
「こんなたんこぶ、すぐに治ります。先生、お嬢様は? お嬢様はどこに……? 無事なんですよね?!」
時景は首を横に振る。動揺している彼に代わって史弥がマサに全て説明していた。脅迫状の内容もすべて。それを聞いたマサは、今度は勢いよく時景に向かって頭を下げていた。
「まさかお嬢様が誘拐されるなんて……留守を預かっていた身なのに、先生にお詫びのしようもございません」
「……いえ、マサさんは何も悪くありません。ところで、マサさんは何か見ていませんか? 犯人の姿とか」
「突然頭を後ろから殴られて……男か女かもわかりません」
三人は俯く。マサは脅迫状を手に取り、ポツリと呟いていた。
「しかし、この金額……他には誰にも話したことがないのにどうして知っているのでしょうか……? 先生も誰にも話してはいませんよね?」
時景は頷く。史弥はきょとんとしていた。マサは史弥に説明する。
「この一万円という額は、今すぐ引き出すことのできるお嬢様の資産と一致しているのです」
そう言われ、史弥は合点がいったようだ。
「宮園家の遺産か!」
「そうだ。宮園家の当主が亡くなった結果、琴乃は会社以外の資産を引き継いだんだ」
会社の経営権は宮園紡績の幹部に移ってしまったが、資産は琴乃が相続していた。その多くは土地や証券だった。これからの生活に必要になるだろうとその一部を売り払い、得たお金は銀行に預けたのだ。それが一万円強ほど。彼女の通帳と印鑑さえあればすぐに引き出すことができる。
「しかし、それを知っている人間はごくわずかなはずだ。俺とマサさん、相続の手続きを手伝った鷹栖家の人間……琴乃には伝えていない」
「どうして? 奥さんのお金なんだろう?」
「金の話を聞いたら、琴乃が記憶を取り戻すかもしれない、と思って……」
「この心配性が! 全く……奥さんも知らない金、か。そうだ、鷹栖家と言えば宮園家がなくなったあおりを受けて、金の面では相当難儀していると聞いている」
だからと言って、鷹栖男爵がこんなちんけな犯罪に手を貸すだろうか? 時景には懐疑的だ。マサは「そうだ」と手を叩く。
「あと、三郎も知っています」
時景も史弥も、思いがけない名前が出てきて大層驚いていた。
「島村さんが? どうして?」
「病院で鷹栖様と相続の話している時、盗み聞きしていたようでして。誰にも話してはいけないと強く念を押しましたが……あの子のことだから、他の誰かに話してしまったかもしれません」
「そうか、アイツも……そういえばアイツ、どこに行ったんだ? まあとにかく、早く警察に通報しよう」
史弥の言葉を、時景とマサが同時に打ち消した。
「ダメだ!」
「ダメに決まっているでしょう?!」
「なんでだよ!」
「脅迫状にも書いてあるだろう! もし警察に通報したら、その時は……」
マサが顔を両手で覆いむせび泣く。考えたくもない、大切にしていたお嬢様がさらに苦痛を与えられ、あの挙句命まで……。
「じゃあどうするんだよ。奥さんの金を引き出すっていうのか?」
「……金なら、俺が何とかする」
「何とか? 一万円だぞ、お前そんなに持っているのかよ」
「貯金だってまだある。足りない分は原稿料の前借とか、借金してでも……」
「明日の朝までにだぞ? そんなに簡単に集まる額じゃない、お前もわかってるんだろ?」
「でも、琴乃に何かあったら!」
頑なな時景に史弥は頭を抱えた。頭が熱くなっている時景の代わりに解決策を考えなければ。しかし、時間がなさすぎる……。時景が自分の通帳を取りに行こうと居間を出ようとした時、玄関の引き戸を誰かが叩く音が聞こえてきた。マサが短く悲鳴を上げる。
「ひっ!」
「……こんな時に誰だ。俺が見てきます」
「待て、時景。……犯人かもしれない」
三人は青い顔を見合わせる。居留守をしようと声を潜めたが、外からは「もしもーし」という男の声が聞こえてくる。しゃがれた声だ。三人はもう一度顔を見合わせて、頷きあう。犯人が外から様子を窺っていて、金品と盗む機会を狙っているのでは? もしかしたら、今は捕まえる絶好の機会なのかもしれない。各々武器になりそうなものを手にして玄関に向かう。マサは包丁、史弥は落ちていた灰皿、時景は火鉢の火箸を持った。
「……開けるぞ」
小さな声で史弥が二人に呼びかける。二人が頷くのを見て、史弥は一気に引き戸を開けて、灰皿を大きく振りかぶった。




