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第六章 ⑦


 ***


 琴乃が勇二郎と会って話をしている間、時景と史弥はロマン堂周辺の聞き込みをしていた。ロマン堂の大家という老人から話を聞くことができた。


「克治さんね、聞いてるよ。まだ目が覚めてないって」

「マスターってどんな人でしたか? 誰かから恨みを買うような……」


 聞き込みは口下手な時景ではなく、話し上手な史弥がやってくれる。新聞記者の本領発揮といったところだ。


「そんな話は聞いたことないねえ。家賃だって欠かしたことはないよ、店をやるのに借金したとは聞いているけれど、そこまで困っている様子はなかったし」


 大家は顎のあたりを摩りながらそう話す。外観はボロボロだったが、喫茶店の経営には問題はなかったようだ。


「テルちゃんが捕まったって聞いたけど……絶対にあの子は犯人じゃないよ。あんなにいい子が克治さんを殴るなんて、あるわけないじゃないか」

「女給さんのこともご存じなんですか?」

「当たり前だろう? いつも元気に挨拶してくれるいい子だよ。あと、新しい女給さんも。コトちゃんと言ったかな? あの子もどこぞかのご令嬢かと思うくらい品があってねぇ……あんな店――と言ったら悪いけれど――で働かせるにはもったいないくらいの別嬪さんだったよ」


 大家の老人は二人の女給のことを思い出しているのか何度も頷いている。


「不審な人間の出入りは?」

「さあ? 女給目当ての若い男が店を覗いていたことならしょっちゅうあったんだけど」

「どんな男でした?」

「貧乏そうな学生風の男が多かったよ。お茶代がないんだねぇ。散髪代もないのか丸刈りで」


 老人と別れ、史弥は手元の帳面ノートを見返す。学生風の男が覗いていた、経営は順調そうだった、新たに得られた情報はこれくらいだ。これからどうするか、と頭を掻く。


「そういえば、マスターを襲った凶器は灰皿だったそうだな」


 史弥の言葉に時景は頷く。あの店にはテーブルの大きさには不釣り合いな大きな硝子製の灰皿があったのを思い出す。史弥が「うーん」と唸りだしていた。


「灰皿で殴るっていう手口も、宮園家事件と共通しているな……」


 史弥がそう呟くので、時景は聞き返していた。灰皿、とは?


「おい、お前、僕が持っていった資料を見ていないのか? 書いてあっただろう?」

「いや、全てくまなく見ているはずだが」

「本当かぁ? ついこの前、三郎に持っていかせた資料にいれておいただろう。……いや、僕の入れ忘れか? 最近忙しかったから、自信がなくなってきたな」

「きっとそうだろう。それで、なんなんだ、灰皿というのは」


 史弥は帳面ノートのあるページを開く。


「宮園琴乃を襲った凶器だよ。帝大の法医学者が傷口の鑑定したと聞いて、話を聞きに行ったんだ」


 鑑定の結果、事件現場に落ちていた灰皿と琴乃の後頭部に残った傷の形が一致したそうだ。それが凶器であると証明されたらしい。


「指紋とやらは?」

「家族みんなの指紋がついていて、ろくに捜査の参考にならなかったそうだ」


 灰皿か……時景は考え込み、ハッとあることを思い出していた。


「待て、史弥。灰皿が凶器ということは……」


 史弥は力強く頷く。彼も時景と全く同じことを考えたのだろう。


「あぁ。きっとあの時、奥さんは灰皿に怯えて気を失ったに違いない。煙草でも火でもなく、灰皿に」


 しかし、それでも不可解なことは多い。時景は首をひねる。


「でも、喫茶にある灰皿は平気な様子だった」

「材質の問題か? 宮園家にあったのは西洋品の硝子製だったと聞いている。形が特徴的で、鑑定しやすかったと学者は言っていたよ」

「ロマン堂の灰皿だって硝子製だった」


 ならば、彼女があの時感じた「恐怖」の根源は「灰皿自体」にはないのかもしれない。結局答えを導き出すことができず、史弥は大きくため息をついていた。


「宮園家事件と関連付けるのはやめよう。頭がこんがらがってくる」

「今のは史弥が先に言い出したのだろう。それに、何でそんな大事な資料を入れ忘れるんだ」

「ちゃんと入れたはずなんだけどな……」


 二人が周辺の聞き込みをしている内に、すっかり日が暮れた。事件当日、不審な人間を見た証言も克治に恨みを持った人間の心当たりも、有益な情報は得られないまま今日が終わってしまった。テルが犯人ではないという確固たる証拠が見つからない限り、彼女は今晩も警察に勾留され続けるだろうか? 琴乃もきっと心配しているだろう……彼女にも捜査の進捗について話しておく必要があると、二人は一度帰ることにした。


「女中さん、僕の分の晩飯も用意してくれているかな」

「お前はどこかに食いに行けばいいだろう」


 英家に着く二人。しかし、外に漏れる灯りがない。中は真っ暗な様子だった。


「外出しているのか……?」


 時景は引き戸に手をかける。鍵はかかっておらず、簡単に開いた。玄関に履物は二人分ある、琴乃とマサの草履。しかし、琴乃の草履はバラバラに脱ぎ散らかされていた。琴乃らしくない。


「……嫌な予感がする」

「奇遇だな、僕もだ」


 二人は静かに居間に向かう。人の気配すらない。時景が電灯をつけ、明るくなった瞬間、史弥が叫んでいた。


「女中さん!」

「……マサさん!」


 台所の土間でマサが倒れている。史弥がマサを介抱している間に、時景は周囲を見渡していた。琴乃の姿がどこにもないのだ。


「琴乃、琴乃!」


 時景は客間を見て、階段を駆け上がり、自分の部屋と彼女の部屋、どちらも勢いよく開ける。電灯をつけるがそこに琴乃がいた形跡すらない。緊張感と焦りで、妙な汗が次から次へと流れてくる。嫌な予感がする、外れてほしいと祈るが、こういう時は運が悪く大抵当たってしまうものだ。

 階下から時景を呼ぶ史弥の叫び声が聞こえてきた。今度は駆け下り、居間に向かう。史弥はマサを抱きかかえ、居間に寝かせていた。


「台所にこんなものが」


 封の切られた茶封筒と便せん、史弥が開けたらしい。それをひったくるように奪い、時景は中身を読み始める。史弥は震える声で小さく呟く。


「……まさか奥さんが……」


 時景の顔は真っ青だった。手から力が抜け、便せんがはらりと床に落ちる。史弥がそれを拾って、再び目を通した。時景の唇はわなわなと震えて、声はかすれていた。


「これは……琴乃は、誘拐されたということか……?」


 万年筆の青いインキで書きなぐられたそれは、脅迫状だった。この手紙の主は、琴乃を拉致して身柄を預かっていると主張し、琴乃の命と引き換えに多額の身代金を要求している。そして警察に通報しようものなら……彼女の命は保証しない、と。


「この脅迫状を読む限り、そうだろう。お前の希望的観測だと思っていたが……ふたつの事件、やはり関りがあるのか?」


 呆然と座り込む時景。史弥は苛立ちながら、また髪をぐちゃぐちゃと搔きまわしていた。


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