第六章 ⑤
琴乃は真剣な眼差しで彼を見つめる。勇二郎は【あの日】のことを思い出していた。
あの日……琴乃が彼が通っていた大学にやってきたのだ。大事な話があるから二人きりで話をしたいと言って。正門でずっと勇二郎が出てくるのを待ち構えていたらしい。二人は大学近くの喫茶店に行き、向かい合わせに座った。いつも以上によそよそしい琴乃、勇二郎は大して深く考えず、その話とやらを聞かせてほしいと彼女を促した。琴乃は意を決するように、まっすぐ勇二郎を見据えていた。
「婚約を破棄いたします」
彼にとっては寝耳に水だった。勇二郎は聞き返すが、琴乃は同じ言葉を繰り返す。彼女の声音はとても力強かった。
「どうして? なんで?」
問いただす勇二郎の声が震え出す。それとは正反対に、琴乃の声は落ち着いていた。
「心から大切にしたい方と出会ったからです。私はその愛する人と共に、今夜……駆け落ちすることに決めました」
「誰だよ!」
「それだけは言えません!」
憤る勇二郎の声が大きくなり、それに釣られたのか琴乃も声を荒げていた。喫茶店中の視線が二人に向くが、勇二郎は気にならない。婚約破棄を女性側から言い渡されるなんて……こんなに屈辱的な事は生まれて初めてだった。
「こんな一方的な破棄、許されるわけないだろう! しかもその理由が他の男と逃げるからなんて……いかがわしいにもほどがある!」
「……申し訳ありません」
勇二郎がどれだけ声に怒気を滲ませても、琴乃は冷静なままだった。その温度差に、勇二郎の怒りが空回りしていく。
「何の不満があるんだ、この私に! 家柄も申し分ない、頭も、顔だって悪くない」
性格だって、母親に「穏やか過ぎるのが玉に瑕」と言われるくらいだ。順風満帆だった彼の人生に、初めて大きな烙印が押されたかのような挫折感。勇二郎は整えていた髪をぐちゃぐちゃとかき回していた。
「このまま一生あなたと添い遂げるのだと、私もそう思っておりました。けれど……私は違和感を抱いたのです」
違和感? 何を自分に意見しようとしているんだ、この女は。勇二郎はそう思いながら琴乃を睨む。しかし、琴乃はその視線をまっすぐ見つめ返した。こんなに揺るがない強気な彼女を彼は初めて見た。幼いころからの長い付き合いなのに。この凛とした姿が彼女の正体なのかもしれない。固い決意が彼女を奮い立たせ、強さを与えている。美しく透き通った瞳に映る勇二郎の姿は、彼自身も醜いと思えるほどだった。
「あなたはきっと、私のすべてを受け入れてはくれないだろう、と思ったのです。でも、私はそれを諦め、受け入れようと……この結婚はお父様とお母様のために必要なことなのだから。でも、私は出会ってしまった……本当の私を愛してくださる方と。私はその人と共に生きていく、そう決めたのです」
「……どうせ、恋にのぼせ上っているだけでしょう」
負け惜しみだ、と勇二郎は琴乃にバレないよう自嘲し、唇を噛んだ。
「その男はきっと、あなたが成金の娘だから優しくしているだけだ。きっと財産を毟り取られ、あなたをあっけなく捨てるに違いない」
「彼は決してそんなことはしません」
琴乃ははっきりとそう言い切る。
「どうしてそんなことを言い切れるんだよ」
「私は、彼を信じているからです」
勇二郎は言葉を失っていた。この時初めて、自分は彼女から「信頼」されていなかったのか、と彼は気づいた。
「心の底から信じられる相手に巡り合えるなんて……私、思いもしなかったのです。私はそんな人と一緒に生きていきたいのです」
二人の間に静寂が流れる。琴乃は初めて頭を下げた。
「親も通さず、不義理なのは重々承知でございます。でも、勇二郎さんには直接お詫びしたかったのです」
「謝るなよ……やめろよ……」
「……今まで宮園家のために尽くしてくださった時間を全て無駄にしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
琴乃はそう言って立ち上がり、勇二郎に背中を向けた。決意に満ちた、まっすぐに伸びる背筋。その姿を見て、勇二郎は「もう二度と彼女に会うことはないだろう」と思ったそうだ。
一気に過去のことを話し終えた勇二郎は、休憩するように珈琲を口にする。琴乃も少し冷めた紅茶を飲む。香りはいいが、克治の淹れた紅茶の方がおいしいような気がした。
「女性から婚約破棄を言い渡されるなどみっともなくて、その日は家族に話せずじまいでした。きっと朝になればあなたがいなくなったという報せが宮園家からくるにちがいない、それまで待とう、と……」
しかし、その晩のうちに事態は急変する。宮園家の女中からある一報が届いたのだ。
宮園邸で事件が起こった。夫妻は亡くなり、琴乃も病院に運ばれた、と。勇二郎の父は詳しい話を聞きに警察に向かい、勇二郎と母は琴乃が運ばれたという病院に向かった。母親は気が動転して、婚姻のことや鷹栖家の行く末ばかりを心配していた。母はひどいことばかり言っていたような気がするが、勇二郎は母を落ち着かせるので精いっぱいだった。何とか宥めようとしていた時、宮園家の女中の叫びが聞こえてきた。はっと琴乃の病室を見ると、まるで旅に出るかのような格好をした男が誰よりも先に病室に飛び込んでいく。
勇二郎は、出遅れた、と思った。それと同時に、あの男が琴乃の恋の相手だろうということにも気づいた。ようやっと彼は理解する。ここで出遅れるような自分だから、きっと彼女は自分を選ばなかったのだ。彼が唇を強く噛むと、鉄の匂いが鼻腔に広がる。彼は俯きながら小さな声で話を続ける。彼女に自身の過去を振り返るよう促すように。




