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第六章 ③

 がっくりと項垂れながら四人は病院を後にしていた。三郎は自転車を漕いで新聞社に戻るらしい。時景は史弥のことを思い出していた。そういえばこんな大変な時に来ないなんて、アイツは一体何をしているのか。三郎に言伝を頼んでも良かったが……その背中はもうずっと遠くにあった。仕方ない、と時景は琴乃とマサを見る。


「俺も一度、史弥に話をしに新聞社に行きます。お二人は先に帰っていてください」

「はい、わかりました」

「琴乃。くれぐれも、これ以上危ない真似はしないように」

「そうですよ、琴乃様! まさか警察にも食って掛かるとは……マサは肝が冷えました」

「……ごめんなさい。あの、先生もお気をつけて」


 時景を見送り、琴乃はマサと共に帰路につく。しかし、ふと琴乃の足が止まった。隣を歩いていたマサは琴乃の身を案じているのかわずかに慌てる。


「大丈夫ですか? 琴乃様」

「あのね、マサさん、お願いがあるんです」

「お願い? 私でいいのですか? 先生ではなく……」

「先生には言いづらいのです。彼は私の、旦那様、だから」


 改めてその言葉を使うと先に恥じらいが立つ。それを振り払い、琴乃は佇まいを直した。

 凛とした立ち姿。マサは長年彼女のことを見てきたが……こんな姿は初めて見た。強さをまとい、覚悟を決めたのか瞳は澄み切っている。マサは自然と姿勢を伸ばしていた。


「鷹栖様という方にお会いしたいのです。マサさんなら、彼と連絡を取ることはできますよね?」

「できますが……鷹栖って、勇二郎様のことでござますよね? 琴乃様の婚約者だった。どうして今さら」

「過去の私に関わりのある人の中で、今まで会ったことのない方だからです。もしかしたら、彼は私が記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない」


 先ほど脳裏に現れた見たことのない景色。あれは間違いなく、琴乃の過去の記憶だ。失われていたと思われていたそれは克治の事件を契機に、再び形を取り戻そうとしているに違いない。けれど、その姿はまだぼんやりとしか見えてこない。だから彼女はどうしても会いたいと思ったのだ。婚約者だったという男に。


「マサは反対でございます。ただでさえ琴乃様は、今とても辛い思いをされているのに……どうしてこれ以上傷つきに行こうとするのですか」


 マサは医者の話を思い出す。


「お医者様がおっしゃっておりました。記憶喪失になったのはきっと、心と体に大きな傷を負ったせいだ、と。記憶を取り戻すということは、その傷口を大きく広げることかもしれない。きっと今以上に強い痛みを感じるに決まっております。無理に思い出そうとしなくても……先生だってきっと同じことを言うに決まっております!」


 マサは縋るように琴乃の両手を握る。しかし、彼女は揺るがなかった。


「先の見えない今だからこそ、私は私にしかできないことをしたいのです」


 それこそが、自らの記憶を取り戻すことだ。琴乃はそう確信していた。

 時景が描く物語のヒロインならば、こういう時こそ絶対にじっとしていない。何か一つでも多くの手がかりを得ようと奔走するに決まっている。自分も、そうありたいのだ。琴乃の揺るがない精神を目の当たりにしたマサは、諦めるように息を吐きだした。


「それでは、電報を出しに参りましょう。でも、琴乃様、くれぐれも無理をなさらないように」

「ええ、分かっております」


 ***


 こんな肝心な時に連絡がつかないなんて。時景は貧乏ゆすりをしながら汽車に揺られ、急ぎ足で太陽新聞社に向かっていた。わき目も触れずに史弥と三郎が所属している文化部に向かう。きょろきょろと史弥を探すと、彼は椅子を並べ、腹のあたりに背広をかけて眠り込んでいた。口が開いている間抜けな寝顔。それを見ていると時景のいら立ちがさらに募っていく。


「おい、起きろ!」


 背広を取っ払い大きな声を出すと、史弥は目を覚まし飛び上がっていた。


「なんだよ! せっかく寝ていたのに! は? 時景? お前、なんでこんなところにいるんだよ」

「お前こそ。こんな大変な時に、別の仕事だのなんだの言って……」

「あぁ? 確かに昨晩はずっと他の作家の写植作業をして、朝には終わったからちょっと眠っていて……。ん? 大変な時? 一体何の話だ?」

「島村さんから話を聞いているだろう。ロマン堂の事件だよ」

「三郎? ……いや、今日はまだあいつとは会っていないな。いや、その前に、事件って一体なんだよ」


 三郎は昨日も今日も自転車で病院まで駆けつけていたというのに……どうして史弥は何も知らないんだ? 不思議に思いながら時景は大きく息を吐きだし、事件について説明した。史弥は再び飛び上がる。


「なんでそんな重要な事件、僕に連絡をくれないんだ!」

「だから、マサさんに頼んで電報を打ってもらっているって!」


 史弥は自分の机を漁る。しかし、その電報とやらは見つからない。


「完全に出遅れたな……まずは考えよう。どうしてマスターが襲われたのか、なぜ彼が宮園家事件の記事を集めていたか。時景が気になっているのはこのあたりだな?」


 時景は椅子に座り頷く。史弥は顎に手を添えて、深く考え始めた。


「マスターの事件と、宮園家事件、果たして関係はあるのか……まったくの偶然とは思えないんだ」


 時景の疑問を史弥は簡単に打ち消そうとする。


「時景、その推理はお前の願望に過ぎないかもしれない。まだ二つの事件のつながりは見つかっていないのだろう?」

「そうだが……でも、全く関りがないというのも……」


 時景はわずかに表情を曇らせる。友人の不安そうな顔を見るのは初めてだ、と史弥は彼を案じ「任せろ」と言わんばかり自らの膝を叩いた。


「よし! そのことも含めて、まずは僕たちでも調べに行こう。この事件を解決したら、社会部への異動も叶うかもしれないからな!」

「史弥、お前はまた……」


 史弥は立ち上がり、背広を着た。帳面ノートと鉛筆を手に取る。


「まずは事件の担当記者から話を聞きに行こう。その後は警察、そして現場だ」

「お前、仕事はいいのか?」

「いいって。僕にこんな重要な話を通しておかなかった三郎に全部押し付けてやるよ」


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