第五章 ④
「恋をしてしまったのです。私は、あなたに」
時景は息を飲んでいた。想いを告げてやけになったのか、琴乃は次から次へと言葉を紡ぐ。
「ずっと好きだった小説家の先生にお会いすることができて、お話することもできて、まるで天にも昇るような気持ちでした。初めは、先生が憧れの小説家だったからだと思っておりましたが……あなたが私に優しい表情を向け、話をちゃんと聞いてくれた。その度に私の胸は喜びで打ち震えていたのです」
「……宮園さん……」
「でも『恋慕』も読んでいるうちにヒロインと学生さんを、私と先生に当てはめてしまうようになってしまって……恋に生きようとする二人に憧れて。二人が駆け落ちした時、羨ましいと思ったのです。私の心に咲き始めた恋という花は、何度散らそうとしても、すぐにまた咲いてしまう」
琴乃は自分の胸をぎゅっと抑える。きっと言わないままこの恋に終止符を打つつもりだったのだろう、時景のように。
「これは到底叶うことのない恋。想いを告げても、先生に迷惑になってしまう。でも……止まらないのです」
琴乃は時景を見つめる。澄んだ瞳は涙に濡れ、輝きを増しているように時景には見えた。
「どうして私は、先生が書いた作品の登場人物ではないのでしょう? そんなことを考えては、この世を恨んでしまう。先生の想像の中で自由に生きることができたら、結婚を押し付けられても好きな方と一緒に逃げて、寄り添い、生きることができたら。その方が絶対に幸せなのに!」
琴乃の叫びが国語研究室に響き渡る。
「父に抗うことができない自分が嫌になります。結婚したら本を読むことだって許されない、先生とも二度と会えない……ならば、こんな世界に生まれてくるのではなかった!」
その言葉が、強い衝動が、時景の体を突き上げていく。
時景は琴乃の肩を掴み、涙に濡れる彼女の唇に自分のそれを押し付けていた。思いがけない口づけに琴乃の涙は止まる。琴乃は彼の口づけを拒むことはせず、体の力を抜いて受け入れていた。恋をした相手から口づけをされたときどうしたらいいのか、彼女は時景の作品を読んで知っている。まずは彼を受け入れ、それが相手にも伝わるようわずかに顔を傾けた。時景は唇を離し、強く強く彼女を抱きしめた。
「俺の前で、二度とそんなことは言ってくれるな。生まれてくるのではなかった、と」
「せんせい……」
琴乃の言葉も聞かず、時景は再び彼女の唇を自分のそれで塞いだ。わずかに空いていた琴乃の唇の隙間に己の舌を差し込む。今まで感じたことのない感触に琴乃の体はびくりと跳ねる。思わず身を引こうとする琴乃。時景は彼女の背中に腕を回し、腰を強く抱き寄せた。決して離さないと言わんばかりに。
涙ではない水音が国語研究室に響いた。時景は一心不乱に琴乃の口内をむさぼる。琴乃は苦しくて彼の腕のあたりを掴む。それに気づいたのか、時景は少し離れてくれた。
時景は琴乃の瞳を見つめる。琴乃はそこから目を逸らすことはできなかった。あまりに真剣な眼差しだった。男の人に口づけされるのはもちろん、こんな目で見つめられるのも初めてだった。
「俺はあなたに出会えて、あなたの恋をして、こんなにも幸せなのに」
涙と唾液に濡れた琴乃の唇に、時景はついばむような口づけを繰り返した。彼の熱い手のひらが、制服の上から琴乃の体をまさぐる。このまま彼と溶け合いたい、そんな欲望に目覚める琴乃。口づけをねだるように背伸びをして、受け入れた彼の舌に自ら絡みあう。お互いを求めあう吐息が、部屋を満たす。
研究室の外から、登校してきた生徒たちの声が聞こえてきた。時景は思わず離れるが、琴乃は縋るように彼に抱き着いた。
「先生、離れたくありません。私は先生と一緒にいたい」
「それは……俺もだ」
けれど、どうしたら「二人が一緒にいられる」のか。二人の脳裏に、同時に、ある考えが浮かんでいた。
「……駆け落ち」
先に口を開いたのは琴乃だった。時景はその返事をするように琴乃の体を強く抱きしめ、彼女の耳元に唇を寄せた。
「帝都の外れに、もう使っていない母の実家があります。宮園家の豪邸と比較したらとても狭いし古臭い。それに、生活は今よりもずっと苦しくなるはずだ」
教師の給金も原稿料もほとんど貯金しているが、駆け落ちをしたら教師の仕事も辞めることとなる。原稿料だけでは相当切り詰めた生活を送ることになるだろう。それでも、と時景は続ける。
「それでもいいのなら、一緒に逃げよう。今夜にでも」
「もちろんです、先生。私は、あなたと共に幸せになりたい」
「俺も、幸せになるなら君と一緒がいい……宮園、いや……琴乃さん」
彼の胸の中で、彼女は再び涙を流す。悲しみの涙ではない、これは喜びから湧き上がるものだった。




