第五章 ③
時景は本棚から一冊の本を取り出し琴乃に手渡した。それは時景の著作だった。新聞に連載して好評だった「恋慕」の文庫本。
「……もしかして、これは私のことを想いながら書いてくださったのですか?」
時景は恥ずかしいのか琴乃の背中にぎゅっと抱き着き、彼女に自分の顔を見せようとしない。「恋慕」も琴乃の好きな作品だが、自分のことを想像しながら書いたと言われると嬉しさと恥ずかしさが共にこみ上げてくる。この作品は時景にとって代表作だ。ヒロインと学生の恋愛関係もそうだが、情熱的すぎる恋人同士の描写がとても好評だった。
「二人が駆け落ちした話が掲載された翌日のあなたの顔を、今でもよく覚えている」
あの月曜日、琴乃はとても難しそうな顔をしていた。声の調子もいつもより大人しく、感想も少しで終わってしまった。彼女が国語研究室を出る時、小さく呟く声が時景の耳に届く。
「……二人が羨ましい」
彼女のか細い後ろ姿を見て、時景は勝手な期待感を抱いていた。もしかしたら、彼女も自分と同じ気持ちを抱いているのではないか、と。もしそうだったら……時景は自分の手を見る。彼女のために、何かしてあげられることはあるだろうか? このちっぽけな自分の手に。
二人の関係が大きく変化したのは、その翌週だった。始業よりもずっと早く国語研究室にやってきた琴乃の顔は青ざめていて、何か諦めたかのように暗い瞳をしている。目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。時景が体調を窺うより先に、彼女はこう口を開いた。
「もうお別れみたいです……」
琴乃の両の眼からポロポロと涙がこぼれだす。嗚咽を漏らし、手で顔を覆い泣き出す琴乃。時景は慌てて彼女を国語研究室の中に引き入れて、念のため誰も入ってこないよう鍵をかけた。女性に泣かれるのは初めてだったから、どう対応したらいいか分からない。けれど、目の前で愛しい女性が泣いている。もどかしくて仕方がない。いつも凛として楽しそうにしている琴乃の弱弱しい姿を見て、時景は彼女を抱きしめたくて仕方がなかった。時景はその欲に堪えて、努めて冷静に、琴乃に何があったのか尋ねる。彼女は嗚咽交じりに、ゆっくりと事情を教えてくれた。
「卒業前に結婚すると、お父様に言われました……」
時景の背筋がぞっと冷たくなる。想像していた中でも最悪な状況。否応なく、二人は引き裂かれるのだ。
「会社に、婚約者のご家族に事業の一部を渡すのを反対する幹部がいて……黙らせるためにとりあえず先に籍をいれる、と……。学校にも近日中に退学届を出すとおっしゃって……」
泣きじゃくる琴乃に、時景はハンケチを差し出した。こんなものでは慰みにもならないだろうが、その涙は見たくはなかった。
「結婚がそんなのにいやなのか?」
時景の問いに琴乃は頷く。
「相手が? 相手の母親のことが嫌だから、そんなに泣いているんですか?」
その問いには琴乃は否定するように首を横に振った。
「ならばどうして」
「だって……学校を辞めたら、もう二度と英先生とお話することができません」
琴乃は時景を見つめ、すぐに視線を逸らした。
「ごめんなさい、先生……ごめんなさい……」
「どうして謝る? 君は何か悪いことをしたわけでは……」
時景の指先が琴乃の肩に触れた。その瞬間、わっと琴乃の中で「ある感情」が湧き上がり、思わず口走ってしまう。秘めたままにしておこうと決めておいた、劣情に近い恋心を。




