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第五章 ①


 昔話で盛り上がる千代と梅子。琴乃はそれをずっと興味深そうに聞いていた。


「琴ちゃんのおうちは紡績工場だったけれど、糸だけではなく生地を作っていたの。その端切れを貰ってはよく私たちにリボンを作ってくれて。私たち、いつもおそろいだったのよ」

「琴ちゃんのお父様が商売上手でいらしてね。すぐに流行の色を取り入れた布地を作っていてね。琴ちゃんはその端切れを使ってリボンを作っていたの。そのおかげで私たち、女学校時代はいつも流行の最先端にいたんですよ」

「琴ちゃんが新しいリボンをつくると、みんなこぞって近い色や似た柄を探したりしてね」

「リボンを受け取ったら、その後の小説の感想話も付き合わされるんですけどね」


 三人の様子を見ながら、時景も当時のことを思い出していた。


 あれは昨年の晩夏だったか。ある月曜日、いつもなら楽しそうにやってくるはずの琴乃の表情がわずかに浮かなく見える日があった。彼女と出会ってまだ数か月だったが、時景はそんな些細な変化も感じ取れるようになっていた。感想を話そうと口を開く琴乃を、時景が遮った。


「体調でも悪いんですか? 顔色が良くないように見える」

「……え?」

「もし具合が悪いなら早退した方がいいのでは」


 琴乃は驚いたようにハッと口を開き、すぐにぎゅっと結んだ。チクチクと刺さる時景の視線に観念したのか、息を吐くように弱音を漏らした。


「先生には何でもお見通しなのですね」


 上手く隠していたつもりだったのに、とポツリと呟く。両親も女中たちもわずかに曇る琴乃の変化に気付かなかったのに、英先生はどうしてこんなにも敏いのだろう? 琴乃は不思議だったに違いない。


「……実は、昨日、婚約している方やそのご家族と食事を一緒にしたんです」


 まるで後頭部を煉瓦で殴られたような強い衝撃が時景を襲う。覚悟はしていたつもりだったのに、やはり彼女の口から婚約者の存在を知らされると、まるで今まで積み上げてきた物を一気に壊されたときみたいに呆然としてしまう。時景の表情がサッと消えたのを琴乃も気づいたのか、彼女はわずかに首を傾げていた。


「いや……どうぞ、続けて」


 必死に取り繕いながら、琴乃に話の続きを促す。しかし心時景の臓はバクバクと大きく早く脈打ち、平静を保っていることが不思議なくらい目の前がクラクラと歪んでいる。琴乃は時景の様子を気にしながらも話し出していた。


「そこで相手のお母様に……い、いやらしい大衆小説ばかり読むのはもうおやめなさいと言われてしまって」


 一日経ったけれど、まだはっきりと思い出せる。鷹栖家の母は、とても不快そうな顔をしていた。口調も悪意に満ちていてとげとげしい。


「あなたは鷹栖男爵の次男である勇二郎の妻となるのですから。もっと品のある生活を送っていただかないと。恥をかくのは勇二郎なんですよ」

「母さん、やめてくれよ」


 婚約者である勇二郎が自分の母親を諫めてくれる。その様子を見た琴乃はほっと胸を撫でおろしていた。しかしその安息はつかの間のものだった。


「結婚したらやめるように私から言いますから。今くらいいじゃないですか。ねえ、琴乃さん」

「……えぇ」


 絶対に本を読むのはやめません! そう声を大にして言いたかった。けれど、勇二郎に期待している父の手前、何も言えなかった。もしそんなことを言ってこの結婚話に亀裂が入ったら……その損害は計り知れない。

 勇二郎の母は宮園家に負けたくないのか、いつも琴乃にきつく当たってくる。それが琴乃には憂鬱だった。穏やか過ぎる勇二郎は母親の小言に言い返すこともせずいつもなあなあに済ませて、姑との関係に苦労した自分の母はそれが当たり前だと思っている。ここに自分の味方は誰もいない。琴乃を助けてくれるのは、今まで彼女が何度も読み返し心の中にため込んできた数々の物語だけ。けれど、それすらいとも簡単に奪われてしまいそうだ。


 琴乃の人生って、一体何なのだろう?


 どうしたらずっと本を読むことができるのか。その方法ばかり考えてしまう。結婚して勇二郎が家にいないときにこっそり読んでいても、すぐに女中たちが気づいて鷹栖の母に告げ口するに違いない。本を読むことはとても楽しいことなのに、どうして読みもしない人に低俗であると非難されなければいけないのか。


 琴乃は時景に、ぽつりと弱音を漏らしていた。


「どうしたら、みんなに本を読む面白さを知ってもらえるのでしょう? 本は私に経験したことがないことを、見たことがない世界を、感じたことがない気持ちを教えてくれます。みんな本を読んでくれたら分かってくれるのに……」


 時景は落ち込んだ琴乃の肩に触れ、この腕で抱いてしまいたいと思った。か細い肩は不安と失望で震えていて、時景にはとても痛々しく映った。彼は「男」として、彼女を勇気づけてあげたかった。しかし、自分にはそれができない。自分が彼女の「先生」であり、彼女には結婚を約束した相手もいる。婚約者がいる女性の体をそうやすやすと触れるわけにはいかないのだ。

 しかし、彼女の心ならば時景も触れることができる。実際、彼は作品を通して何度も彼女の心に触れてきた。勇気づけるように、時景はいつになく明るい声を出した。


「ならば、俺がいつか、どんな人でも楽しんでもらえるような作品を書くと約束するよ」


 そして、彼は自分の心を押し殺す。琴乃に触れて慰めたい。強く抱きしめたい。身分と境遇の垣根を越えてしまいたい。それら全てを一掃するように。


「だから卒業した後も……家庭に入った後も、どうか読んでほしい。俺の作品を……」


 琴乃は遠い目をした。両腕を力なくだらりとおろし、いつもなら透き通っている瞳が曇っていく。外から物悲しい風の音がした。時景はその瞳を見てひどく後悔した。こんな顔をさせたくて言ったわけじゃないのに。作家なのに、彼女を勇気づける言葉すら言えないのか、と。


 時景がそんな作品を書けるようになった頃、琴乃はもうここにはいない。彼女が来なくなった国語研究室を想像すると、時景は猛烈に寂しくなった。そして、腹立たしさを覚える。ふがいない自分ではない、彼女の婚約者に対して、だ。彼女の心も守ることもできない男が琴乃を手に入れるのだ。腹立たしい、それ以上にその男が羨ましい……いつの間にか、彼女の存在が自分の中でこんなにも大きくなっていたのか、とようやっと時景は気づいた。もっと早く気づけていれば、未来は変わっていただろうか? どうしようもない想像を膨らませ、彼は一人で後悔をしていた。


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