第四章 ③
五月になってからというもの、琴乃は毎週月曜日、始業よりもずっと早く投稿して国語研究室に向かっていた。小説を読んだ感想を昨日の朝のうちに帳面に書き出して、早く時景にそれを伝えたくてうずうずしていたのだ。
「先生、ヒロインはこれからどうなってしまうのですか? 恋した人を選ぶのか、幼いころからの許嫁を選ぶのか……気になって昨晩は眠れませんでした!」
「今話してもいいですけど……知りたいですか?」
「今、先を知りたい気持ちと作品を読んでから知りたい気持ちが拮抗しております……」
琴乃は恋愛小説のヒロインに並々ならぬ憧れを抱いているのか、毎週ヒロインに対してとても感情移入しながら感想を時景に聞かせている。眩しい朝の光が国語研究室に注ぎ込み、目の前にいる少女の瞳の輝きが増していく。いつしか時景は作品が掲載される日曜日より、月曜日のこの時間を楽しみになっていた。今、彼女の話を聞いている時間が癒しのひとときになっている。楽しい、それをなるべく顔には出さないように、彼女の話に耳を傾ける。
こんな時間がずっと続けばいいのに。けれどそれは叶わない夢だ。連載が終わるころ、彼女は女学校を卒業する。それどころか、卒業を待たずして結婚のため女学校を卒業せずやめていく生徒も多い。もしかしたら琴乃だって……それを想像した瞬間、時景の背筋が一気に冷たくなっていった。
「先生? 顔色が悪いようですが?」
「い、いや、大丈夫。話、続けて」
無意識のうちに時景の顔が青くなっていたようだ。敏い琴乃はその変化にすぐに気づく。時景は懸命に表情を取り繕った。しかし、と時景は心の中で首を傾げる。この冷たさは一体何だったのだろう? と。時景にとってこれは初めての感覚で、人生経験が浅く、名前を付けることができなかった。でも、琴乃の将来が気になって仕方がなかった。気づけば、時景はぽつりと小さな声で尋ねていた。
「宮園さんは女学校を卒業したらどうするんですか?」
家業を手伝うとか師範学校に進むつもりだとか、彼が想像した事とは正反対の進路を言って欲しかった。しかし、時景がそれを尋ねた次の瞬間、琴乃の表情がみるみる曇っていく。瞳の輝きも失われていく、聞くんじゃなかったと時景は心底後悔し始めていた。
***
時景に抱きしめられながら、琴乃はじっと彼の昔話を聞いていた。
「先生は、女学校の先生でもあったのですね……」
意外だった。執筆している姿ばかり見ているから、学校の先生をしている時景が上手く想像できない。でもきっと楽しい授業だったに違いない、と琴乃は想像を膨らませていた。
でも、出会ったときは女学校の生徒と先生、愛好家と作家という関係だったのに……どうして抱き合う関係になったのだろう。過去のことを彼から直接聞いても、琴乃はまだ何も思い出せないままだった。まるで物語を読みきかせられているみたい、と琴乃は思う。
「琴乃は『あること』で迷っていたけれど……他人だった俺に気を遣っていたのかあまり話してはくれなかった」
「……その悩み、マサさんは知っていたのですか?」
「おそらくだが、君は話してはいないと思う。家に関わりのある事だったから、家族や使用人に話すのは憚られると思っていたに違いない。でももしかしたら……君は、友人には話をしていたかもしれない」
「私にご友人がいたのですか?」
寂しそうに遠くを見る琴乃。友人、と聞いても顔も名前も全く思い出せない自分が嫌で仕方がない。琴乃が寂しそうに俯くとうなじが露わになる。時景は堪らず彼女を強く抱きしめる。そして、あることを提案した。
「……会ってみたいか? 君の友人に」
「会えるのですか?」
「連絡を取ってみて相手が了承してくれたら、だが。でも琴乃が会いたいと言ったらきっと喜んで来てくれると思う」
「会ってみたいです!」
声音に明るさが戻り、時景はほっと胸を撫でおろす。早速、明日手紙を出しに行こう、と琴乃を抱きしめながら時景は考えていた。
***
翌週、時景と琴乃は外出する用意をしていた。時景は珍しく背広を着て、いつもは下駄なのに革靴も履いている。琴乃は鮮やかな花柄の着物に、マサが「せっかくのおでかけですから」と用意してくれたセルロイドの櫛を挿していた。
「いってまいりますね、マサさん」
「えぇ、楽しんできてくださいね、琴乃様。先生、くれぐれも目を離さないよう」
「分かっています。ほら、約束の時間が近い。行こう」
「はい!」
玄関の扉を閉める琴乃は随分と張り切っている。時景はそれを微笑ましく思いながら、彼女に腕を差し出した。
「どうぞ」
「え?」
「はぐれてしまわないように。俺の腕でも掴んでいて」
「……はい」
琴乃は少し照れながら、時景に腕を絡ませた。寄り添って歩く二人は、本当に夫婦みたいだ、と琴乃の心はさらに高揚していく。
二人は今日『琴乃の友人』に会いに行く。時景が手紙を書いたらすぐに返事が来たのだ。時景は日時と喫茶ロマン堂に来るよう返し、克治にも場所を使わせてほしい話をしておいた。きっと今日この時間は貸し切りにしてくれているに違いない。二人は少し緊張した面持ちでロマン堂に向かった。




