第一章 ②
琴乃の不安をよそに、時景は黙々と朝食を食べている。寝ぐせが残ったままのぼさぼさの髪、シャツもズボンもきっと昨日のままに違いない。女中のマサは「身なりと整えたら今よりもずっと男前になるだろうに、もったいないですね」と彼を見てよく言っている。でも琴乃は、今の「仕事に打ち込んでいる作家」のような雰囲気を感じられる姿も、たまに見せるスマートで魅力的な姿も、どっちも時景らしいと思っていた。箸を持つ彼の手には万年筆の青いインキがついている。ずっと万年筆を握っているせいで指に染みこんでしまったそう。なんとも小説家らしい逸話だ、琴乃は羨望の眼差しで彼の指をこっそり見つめる。
自分の見た目には無頓着だけど、彼は米を一粒残さず食べる几帳面さもある。彼が作家であるということとまめな性格であるということ以外だと、琴乃より8つ年上の27歳であることしか彼女は知らなかった。
さっさと食事を終えた彼はお茶を淹れているマサに話しかける。
「マサさん、今日の午後、知人が来るので」
「わかっておりますよ。琴乃様、一緒にお買い物に行きましょうね」
「……はい」
時景に来客があるとき、必ず人払いをする。それがこの家の暗黙の了解だった。琴乃は彼の知人の姿を一度も見たことがない。気になるけれど、気にしてはいけない。琴乃がここで暮し始めたのが昨年の冬、そのしきたりをずっと守っている。
朝食を終えた後マサの手伝いをしようと琴乃は台所に向かうが、また追い返される。
「午後には買い物に行くのですから。琴乃様は今くらい休んでいてください」
マサはいつも琴乃の体調を気遣ってくれるが、ありがたさよりも申し訳なさが勝ってしまう。琴乃は居間の隅っこで今日の新聞小説を読み始めた。
この時間が一番好き。時景の作品だけではなく他の小説を読むのが、何も持ち合わせていない琴乃の唯一の趣味。一文字もこぼさないようにじっくりと読んでいると、後頭部に引きつるような感覚があった。あまり触らないように医者に言われているけれど、どうしても気になって触ってしまう。
そこには昨年の十月に負った大きな傷がある。どうやら後頭部を大きなもので殴られた跡らしい。らしい、というのは琴乃が傷を負うきっかけも忘れてしまったから。もしかしたらその傷が影響して、病院で目覚めるより前の記憶を失ったのかもしれない、と医者は話していた。
琴乃は病室で目を覚ました時、時景が放った言葉を思い出していた。
「俺は、あなたの夫です」
その言葉に周りは騒然としていたが、まっすぐで透き通った彼の眼差しを見た琴乃は、時景が嘘をついているようには見えなかった。琴乃は「彼の妻」をいう身分を受け入れ、言われるがまま、時景が実家から譲り受けたというこの少し古ぼけた家で暮すようになった。
彼のことを「先生」と呼ぶのは、周りが彼をそう呼んでいたから。なんて呼べばいいのかもわからなかったのだ。昔の琴乃は「妻」として「夫」のことをどう呼んでいたのか、時景に聞いてみたけれど彼は口を濁していた。だから琴乃も周りに倣うようになった。
マサは「二人の生活の面倒を見たいから」と住み込みの女中になってくれた。
そんな二人の様子を察するに、自分には家族がいないみたいだ。琴乃が何者なのか、時景もマサも間違いなく知っている。でも、教えてくれない。でも琴乃もそれを知ることが怖いと思うようになった。自分の正体を知ってしまったら、二人から引き離されてしまうかもしれないという悪い想像が止まらない。琴乃を「妻」として扱ってくれる時景だって本当は真の愛情なんて抱いておらず、天涯孤独の身の上となった琴乃を憐れんでいるだけなのかもしれない。彼に見放されたらどうなるのか……彼女が生きていくために、情けないけれどその憐れみを受け入れるしかないのだ。
でも、自分が何者なのか知らないままでいるのも、恐ろしい。琴乃は新聞の文字を撫でる。「英 時景」の名前を。今はその立場上、琴乃も「英」を名乗っているが、それは自分には分不相応なのではないかと考える日は多い。
でも共に暮らしていくにつれて、彼女は願うようになっていた。彼のそばにいるに相応しい自分になりたい、と。それは彼女の心の奥底で芽生えた細やかな願い、それを知るものは琴乃しかいない。
時景の連載小説はそろそろ終盤らしい。昨年末まで連載されていた「恋慕」という小説がとても好評で、今連載されているのはその続編である「続・恋慕」という作品だ。
身分の違いを乗り越え結ばれた貴族の令嬢と貧乏な学生の恋物語。前作はヒロインの令嬢と学生が駆け落ちして、二人で幸せに暮らし始めたところで終わった。しかし続編では戦禍によって二人は引き裂かれてしまう。恋人を心配するヒロインの姿がけなげで、琴乃もほろりと涙をこぼしてしまう。
ヒロインが恋人を想い焦がれるシーンに毎回ときめいているけれど、琴乃がそれ以上にヒロインの優しさと強さに憧れていた。自分が大変な時でさえ困っている人を見かけたら絶対に手を差し伸べる、その姿勢を琴乃は尊敬してやまない。前作も大好きで、もう何度も繰り返して読んでいるけれど……読み返すたびにヒロインの気高い生き方に敬愛してやまない。
何度も今週の小説を繰り返し読み、なかなか花が咲かせない鉢植えの世話をしている内に昼が来た。昼食のため居間に降りてきた時景に作品の感想を伝えると、彼は穏やかな目で琴乃を見つめた。話すのに夢中になっていて気づかなかったけれど、彼はじっと琴乃の顔を見ていたらしい。
「私の顔に何かついているのでしょうか?」
「いや、別に」
バツが悪そうに時景が視線を食事に向けて、黙々と昼食を食べ始めた。琴乃は考える。あの穏やかな視線に込められていた思いは「懐かしい」に違いない。どうして? 琴乃の疑問が増えていく。
食事を終え琴乃がちゃぶ台を拭いていたら、玄関から「すいませーん」という男の声が聞こえてきた。琴乃は台所を見る。マサは熱心に食器洗いをしていて気づいていない。上から時景が下りてくる様子もない。琴乃が出るしかないみたいだ。
「すいませーん。英先生―?」
「はい、お待ちください」
引き戸を開けると、二人の男が立っていた。琴乃にとっては見覚えのない二人。でも、坊主頭の若い男が驚いたように口をあんぐりと開けて、琴乃を食い入るように見つめている。
「……お嬢さん?」
「え?」
まるで幽霊でも見たように、坊主の彼は驚きのあまりピクリとも動かなくなってしまった。もしかしたら……この人は琴乃の過去を知っているのかもしれない。勘付いた琴乃が一歩踏み出そうとしたとき、隣にいたもう一人の背広の男が前に出た。