第四章 ①
あの晩以降、琴乃は毎晩時景の部屋で過ごすようになっていた。彼の仕事が終わるまでは大人しく彼の蔵書を読み、じゃれつくように睦みあい、同じ布団で眠る。
しばらくそのような生活を送ってから、ようやっと二人の欲望が落ち着き理性が勝ってきたころ、時景は過去の話をし始めた。琴乃は後ろから時景に抱きしめられ、彼に乱された寝巻きの襟元や裾を直しながら彼の話に耳を傾ける。時景は、琴乃と出会ったときのことを振り返り始めていた。
時景が琴乃と初めて出会ったのは、昨年の春だった。
そのころ、時景は作家の傍ら教員として働いていた。女学校への赴任が決まり、初めて出勤しようとしていた四月上旬、彼は勤務先の制服を着た少女を見つけたのだ。紺色のワンピースにセーラー襟、帝都でも有名な洒落た制服は遠くからでも良く目立つ。しかし、目立っていたのは制服のせいだけではない。その少女が、みすぼらしいボロボロの軍服を着た男を暴漢たちから助け出そうとしていたからだ。時景はその姿にぎょっと目を丸める、あまりにも無謀すぎる。時景が思わず駆け出していた。
二人の暴漢と対峙する少女。少女は怯もうとしなかった。双方の間に立ち、軍服の男を庇いながら啖呵を切る。
「お国のために戦ってくださった方に何て酷いことを!」
張り上げた声はわずかに震えていた。彼女も怖いのだろう……しかしそれを覆い隠すようにさらに大きな声で暴漢たちを圧倒する。
「大日本帝国の男児としての矜持はないのですか!」
周りのヤジからは「そうだ! そうだ!」という賛同の声があがり、男たちはバツが悪かったのかそのまま逃げていった。少女は安心したのか体を緩ませて、くるっと軍服の男に向かって振り返った。
「大丈夫ですか? まあ、手から血が。少し待っていてください」
彼女は鞄から真っ白のハンケチを取り出し、それを軍服の男に渡した。慈愛に満ちた横顔、清純な瞳の色。時景はその瞳に、心を奪われていた。
しかし、バツが悪かったのは軍服の男も同じだったようだ。こんな若い女に助けられるなんて、男としての矜持がズタボロだろうと時景は容易に想像できた。軍服の男は少女からハンケチを奪い、そのまま走り去ってしまった。少女はその背中を見送りながら肩を落としていた。
彼女に見とれていた時景はハッと己を取り戻し、彼女に声をかけていた。
「たとえ人助けのためとはいえ、危ないだろう」
少女はきょとんと眼を丸めている。知らない男から変なことを言われた、そりゃそんな表情になる。けれど、時景の口は止まらなかった。
「君もアイツらから暴力を振るわれたかもしれない。恨みを買って連れ去られて、家族にも危険が及んだかもしれない。もう少し考えて行動した方がいい」
少女は首を横に振り、堂々と胸を張った。
「でも、困っている人を放っておくことはできません。そうでしょう?」
「それは、君が危ない目にあってもか?」
「えぇ。私の憧れの方なら、絶対に同じことをしますから」
「憧れ?」
少女はポッと頬を染めた。
「好きな小説に出てくる士官様です」
それは……小説を書く者として、時景も読者から言われたいセリフだ。何も言うことができずに黙っていると、遠くから少女の友人と思しき少女たちが手を振っていた。少女は「失礼いたします」と丁寧にお辞儀をして、そちらに向かって走っていった。
「もう、琴ちゃんってばびっくりさせないでよ……」
「千代さんのお付きの女中さんなんて、助けてくれる人を探そうとして、まだ戻ってきてないんですよ」
「そうなの? 千代ちゃん、ごめんね」
「いいえ、琴ちゃんが無事ならいいわよ。彼女なら放課後までには戻ってくると思うわ。ほら、行きましょう。遅刻しちゃいますわ」
時景は小さくなっていく背中を見つめる。あの危なすぎる高潔さ、清らかな瞳が心に残ったまま。また会えるだろうか……いや、会えるに違いない。彼女が着ていた制服は、彼がこれから勤務する女学校のものなのだから。時景も彼女たちに続くように歩き出していた。




