第三章 ⑥
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狭い布団の中で琴乃は目を覚ます。窓掛からは朝日がさし込んでいた。隣には昨晩身を重ねたぬくもりがある。琴乃はまじまじと時景の横顔を見つめるけれど、まだ彼が起きる気配はない。閨事が終わった後、疲れ果ててそのまま眠ってしまったから、お互いに何も身につけていなかった。時景の引き締まった胸板が目に飛び込んできたとき、琴乃は恥ずかしさのあまり声をあげそうになった。それが視界に入ってきただけで、琴乃は昨晩のことをありありと思い出してしまう。
普段は冷静で口数も少ない時景が、秘めていた情熱を琴乃にぶつけ、彼女はか細い体でそれを一心に受け止める。何度も何度も耳元で愛を囁かれ、琴乃にも同じように愛の言葉を言うように彼は駄々っ子のように求めくる。琴乃は快楽に翻弄されながらも彼を受け入れ、異性と体を重ねるのは初めてだったはずなのに何度もその身は喜びに打ち震えた。
名前だって、いつも少しだけ距離を感じていた「琴乃さん」という呼び方ではなくて「琴乃」と彼に呼び捨てにされて、彼は彼女の名前を呼びながら琴乃に覆いかぶさり最後は……思い出すと、恥ずかしくていたたまれない。彼の手に翻弄され嬌声を上げていた琴乃、本当にあれが自分自身だったのかと疑ってしまうくらい。琴乃も時景によって大いに乱れた夜だった。
彼を起こさないよう、琴乃はそっと布団から出た。散らばった寝巻きを手に取り簡単に身を整えようとする。でも、体が重くて動作がとてもゆっくりだった。腰も痛むし、脚の間にはまだ彼が存在しているような感覚もある。けれど、それを琴乃は不快ではなく幸せだと感じ取っていた。静かに時景の部屋を出て、自室に向かう。
まずは髪を直そうと琴乃は鏡に向かった。ひどい寝ぐせだ。こんなにも髪が乱れる朝は初めてかもしれない。こんなぼさぼさな頭を時景に見られなくて良かったと思いながら、癖が取れるまで何度も梳かす。そしていつも通り三つ編みを結いあげたけれど、そこで琴乃の手が止まった。
「いつまでも三つ編みのおさげでは子どもっぽいかしら」
本棚に仕舞ってある婦人誌を取り出した。束髪を結う方法が載っていたはず、琴乃はそれを見ながら髪を結い始める。長い三つ編みを頭の後ろで巻き付けてお団子を作る。巻付針で動かないように固定して、琴乃はかんざしを挿した。小さな花がたくさんついたかわいらしいかんざし。いつもはリボンばかりだったけれど、こういうのもいいかもしれない。鏡の前で満足そうに微笑む顔は、もう少女ではなくどこかの奥方のみたいだ。
着替えて部屋を出ると、ちょうど同じように部屋を出た時景と出くわした。二人とも驚き、肩をびくりと震わせて、気まずそうに視線を逸らした。昨晩のことを思い出してしまったに違いない。互いの体をむさぼり、耽溺して、まるで自分じゃないみたいに情熱を燃やしあった夜。琴乃は指先まで真っ赤になり、時景も耳がわずかに紅色に染まっている。
「……おはようございます、琴乃さん」
恥ずかしそうに口元を抑えながら、時景は小さく呟いた。呼び方が元に戻っている。
「おはようございます、先生……」
再び沈黙が生まれる。時景は背けていた顔を琴乃に向け「それ」と指さした。
「髪型、似合います」
「え? あ、ありがとうございます!」
いつも隠れていたうなじがあらわになっている。いつもの貞淑な少女のような雰囲気はなく、うっすらと妖艶さがにじみ出ていた。惚れた欲目かもしれないが、今の彼女の姿は時景には煽情的だ。そのうなじに口づけして、いやかじりつきたくて堪らない。しかし、今晩はさすがに控えなければ……時景の心の中で、欲望と理性が葛藤している。
「私、朝ごはんの支度に行きますね」
「あの、琴乃さん」
時景は琴乃の手首を掴んだ。琴乃はハッと顔を上げる、彼の視線が琴乃の瞳を射抜く。動揺していると、時景はそっと呟いた。
「今夜も、俺の部屋で……」
「えっ! あの……」
再び琴乃の顔が真っ赤に染まる。今晩もなんて、身がもつかしら? 琴乃の不安に時景が気づいたのか、彼は慌てて取り繕う。
「そうではなくて! 昔の話を……昨夜はできなかったから」
「む、昔の話ですね……っ!」
早とちりしてしまい、恥ずかしいやら。まるで湯気が出そうなほど赤くなっている琴乃を見て、時景はふつふつと昨晩感じたような激しい愛情がまた込み上げてきた。
「わかりました。また夜に伺います」
返事をしても、時景がまだ離してくれない。琴乃が困惑していると、時景はそっと彼女を引き寄せた。そして露わになったうなじに触れる。くすぐったくて琴乃は妙に艶っぽい声を漏らしてしまう。
「いつもの髪型も愛らしいけれど、こちらも琴乃さんによく似合う」
「あの、先生……」
離してください、とでも言われるだろうか? そう思った時景が身を離そうとしたとき、琴乃は時景の袖をちょっとだけ摘まんだ。
「もう『琴乃さん』と呼ぶのはやめてくださいませ。昨晩は何度も『琴乃』と呼んでくださいましたのに。……私はそっちの方が好きでございます」
思いもよらぬ琴乃の「おねだり」に、時景は喉を鳴らす。
「わかり、ました……」
「ありがとうございます! 私、そろそろ台所に」
「あぁ、どうぞ」
「はい! 先生もすぐにお越しくださいね」
舞う花のように去っていく彼女の姿が見えなくなってから、時景はその場にうずくまった。昔の話をすると言ったけれど、今夜こそできるかどうか……時景は自分の理性がこんなにも弱いのかとしみじみと実感していた。
***
「コトちゃん、いいことあった?」
「え?」
「来てからずっと鼻歌うたってるよ」
開店前のロマン堂、掃除をしているとテルにそう指摘をされてしまった琴乃。家を出る前も、いつまで経っても花を付けない鉢植えに水を上げている時にもマサに「今日はご機嫌でいいですね」と微笑まれながら言われた。
「髪型も違うし。なんだかお姉さんみたいでかわいいね! あ、あの作家先生とうまくいったんでしょう?」
「うん、まあ、そういうこと、かな?」
「もしかして、うまくいきすぎちゃったの?」
根掘り葉掘り聞いて来ようとするテルの脳天に克治が手刀を加える。
「痛っ!」
「お前は余計な詮索をするな!」
「えー、いいじゃん! 一応夫婦として暮らしているわけだから、色々あるでしょ? 将来の参考にするからさ、どこまで色っぽいことをしたのか聞きたい~!」
克治はもう一度テルに手刀を加える。喫茶店で働いているせいか、テルは琴乃より少し年下だけど耳年増で男女の色事を良く知っているみたいだ。うかつなことを言ったらきっとお客さんにも言いふらされるに違いにない。琴乃は気を引き締めるみたいに背筋を伸ばして、口を真一文字に閉じ首を横に振った。テルは唇を尖らせる。
「まあ、うまくいったみたいで良かったね。それで記憶は? 何か思い出せた?」
今度は琴乃は首を横に振る番だ。彼の愛情という大きなものを得られたから気にしなかったけれど、記憶はまだ戻ってくる気配はない。テルは「そっか」と頷いている。克治は満足そうな琴乃の横顔を真顔で見つめていた。テルだけはそれに気づく。声をかけるのも憚られるような真面目な表情でぞっとしてしまう、どうして克治が琴乃を見ながらそんな顔をするのか、テルには分からなかったから。
「……オッサン?」
「ん? あぁ、そうだ。テル、お嬢さん、明日は店を休みにするから」
「お休みですか? 珍しいですね」
「いや、用事を思い出して、な」
琴乃とテルは顔を見合わせた。先ほどの克治の表情を見たのはテルだけで、琴乃は気づいていないらしい。もしかしたら彼女の記憶に関することかもしれない……テルの胸には不安がよぎっていた。




