第三章 ④
時景の願いは、琴乃と共に幸せになることだ。それは「あの日」琴乃も同じだと言ってくれた。共に幸せになろうと二人は誓い合った。それを反故してしまうのは、「あの日」の彼女に対する裏切りになる。時景は目を閉じ、史弥が言っていた言葉を思い出す。
『何も知らないことが奥さんの幸せとは限らないんだぞ』
本当にその通りだ、と改めて思う。今の時景が彼女にしてあげられることは限られているのだ。まずは、もう一度事件について話をしよう。彼女の反応を見て、徐々にマサや三郎からも過去のことや家族のことを話して貰おう。貧乏作家の妻・英琴乃から、令嬢・宮園琴乃へ戻っていってもらって……そして事件が解決出来た時、彼女がどこで暮したいか選んでもらおう。時景はそう決めたが、その決意には諦めに近いものがあった。
***
その晩、琴乃も時景もお互いに話をする機会をうかがっていた。決意を固めた琴乃、諦めのような心持の時景。しかし、その日は中々かみ合わなかった。琴乃はロマン堂の片づけで帰りが遅くなってしまい、時景も勇二郎からもらった仕事を先に終わらせようとしたため琴乃の迎えはマサに行ってもらった。
二人はすれ違ったまま、気づけば夜中になっていた。風呂から上がった寝巻き姿の琴乃は長い髪を拭き、椿油を付けて十分に梳かす。サラサラになった髪を見て、再び自らを奮い起こした。自分は決めたんだと何度も言い聞かせて、意を決して自室から出ようと襖に勢いよく開けた。しかし、目の前には彼女が全く想定していなかった光景が広がる。
「……きゃあっ!」
「す、すみません」
琴乃の部屋の前には、立ち尽くす時景がいた。まさかそんなところにいるとは思わなかったから、琴乃はまるで幽霊を見た時みたいに甲高い悲鳴を上げてしまった。
時景はずっと彼女の部屋の前でなんて声をかけようか迷っていたのだが……まさか彼女が勢いよく現れると思わなかったから、心臓が口から飛び出るほど驚いていた。
なんだか気まずい二人は視線を合わせず、もじもじと下を向いている。その中で、先に口を開いたのは琴乃だった。
「……お話がございます、先生」
時景は一瞬目を大きく丸めたが、すぐに表情が引き締まった。
「俺もです。……俺の部屋に来ませんか?」
琴乃は頷き、時景の後について彼の部屋に入った。いつも通り整った部屋。寝る用意をしていたのか布団が敷かれている。文机には新しい原稿用紙が山になっていた。新作だろうか? でも、琴乃は今それを気にしている場合ではない。時景は薄くなった座布団を取り出し、琴乃を座らせた。
「俺から話してもいいですか?」
「はいっ!」
緊張のあまり、琴乃の声が上擦っていた。
「事件のことを、ちゃんと話します。琴乃さんが自分の過去を知りたいなら……避けては通れないものだと思ったから」
「あの、先生。私は……」
「もちろん、琴乃さんが辛いと思うなら少しずつ。その話を受けて、あなたがこれからどこで暮らしたいか……」
「あの、違うんです! 確かに、事件のことを知るのは私の義務だと思っています。でも、私が本当に知りたいのは……」
琴乃が息を飲む。時景は琴乃の不安を汲み取ったのかわずかに首を曲げている。
「私は、過去の私とあなたがどんな関係だったのか……それが知りたいのです。事件についてはマサさんや西さんに聞くことができる。けれど、私のあなたとの本当の関係は、先生しか分からないから」
「琴乃さん……?」
愛情ではなく憐れみを向けられるのは、彼女の「女のとしての矜持」が許さない。
「もし私たちが全くの赤の他人同士ならば……私はもうあなたの迷惑にはなりたくないのです。私のことを憐れんで共に暮らしてくださるだけならば……私はもう、この家にいない方がいいのでは……そう思うのです、だから……」
琴乃が何を言おうとしているのか、時景はすぐに察しがついた。とっさに彼女の腕を掴み、時景は自分の胸に引き寄せる。琴乃は驚き、顔を上げる。時景は彼女の頬に腕を掴んでいない方の手を頬に添えて、そのまま覆いかぶさるように琴乃の唇に己のそれを押し付けていた。




