第三章 ③
時景は鷹栖勇二郎という男を居間まで招き入れる。この家に客間なんてものはない。勇二郎はちゃぶ台の前に座り、キョロキョロともの珍しそうに家の中を見渡していた。時景は台所で慣れない手つきでお茶を淹れている。茶葉をたくさん使ったらマサが怒るだろうかと思ったら、薄いお茶になってしまった。仕方ない、と時景はそれを居間に運んだ。
「どうぞ」
「どうも」
勇二郎は薄い茶を一瞥する。
「だいぶ生活がお苦しいようですね。連載も終わって原稿料も入ってこなくなったのでしょう?」
「よくご存じで。鷹栖家の情報網とやらですか?」
「そんなものを駆使せずとも、新聞さえ読んでいれば分かります。原稿料が無くなって、どうやって生計を立てているのか。不安になって様子を見に来たんです」
「ご心配なく。多少収入がなくても、今までの貯金がありますし。それを崩していけば当面は困りませんから」
「当面、でしょう? ずいぶん質素な暮らしをしなければいけないようですが」
勇二郎は随分と上から物を言う。時景は柄にもなく腹を立てていた。二人の間には「ある確執」があり、時景も勇二郎も、相手のことを良く思っていない。時景は唇をムッと曲げてから言い返した。
「この暮らしで俺たちは十分です。悠々自適、男爵家のお坊ちゃまである鷹栖勇二郎さんには分からないでしょうが、このささやかな暮らしさえ守ることができればそれでいいんです。それに、今は執筆している暇はない。琴乃さんの事件のことだって調べなければ」
「執筆している時間がないのではなく、仕事が来ないだけでは? あまりに作家としての人気がなさ過ぎて。この暮らしで十分と先生はおっしゃいますが、それならば、あんな場末のカフェーで琴乃さんが働いているのはどうしてですか? 生活費を稼ぐため、彼女を働かせているのでしょう?」
時景は言い返せない。まさか琴乃がロマン堂で女給をしているのを勇二郎が知っているとは……琴乃がこの生活を助けるために働きに出てくれたのは事実だからだ。勇二郎の方がわずかに年下なのに、時景は完全に彼に言い負けてしまった。
二人の間にある確執の原因、それは琴乃だった。勇二郎の攻撃は止まない。
「元はと言えば……彼女は私の婚約者だった女性です。切っても切れない縁がある。こんな狭くて汚い場所で生活をさせておくのは私も大変不憫に思っています。だから、何度も手紙を差し上げたのに」
彼と琴乃の関係、時景もよく知っていた。二人は家が決めた許嫁同士だったのだ……「あの事件」が起こるまでは。
勇二郎から見たら、時景は事件のどざくさに紛れて婚約者を奪っていった憎き男である。しかし勇二郎は琴乃も憎いわけではなく、ずっと心配していた。彼女が退院してからもことあるごとにこの家に手紙を送っていたのだが……時景は勇二郎からの手紙を読んでは琴乃の目に触れないように破り捨てていた。書いてあることはすべて同じだったから、最近は読む前に捨てている。
彼はある提案を繰り返していた。琴乃を女中ごと、鷹栖家の別宅に住まわせるという案を。時景にとってそれは最善ではなく最悪の一手だ。
「手紙では優しいことをおっしゃっていましたが、結局は後ろ盾も家族も失った彼女を妾にして、宮園家の財産も奪いつくそうとする算段でしょう?」
「そんなわけないだろう!」
勇二郎の怒声が狭い居間に響く。彼は額に青筋を立てて、震える唇をぎゅっと噛んでいた。時景は怒りで生まれた隙に付け入るように畳みかけた。
「鷹栖家に行って、琴乃さんが幸せになれるとは到底思えない。どうせあなたの母親が反対して、彼女だって妾いびりもされるに違いない」
口では琴乃の身を案じているが、内心はこの男に琴乃を取られてたまるかという独占欲ばかりが占めている。過去の彼女が選んだのは自分だった。しかし、今の環境に嫌気を刺した彼女か、もしかしたらマサが鷹栖家に行くことに賛成するかもしれない。それだけは絶対に避けなければ――彼女を奪われてなるものか。時景は勇二郎を睨みつける。
「……男の嫉妬ほど見苦しいものはありませんね」
時景の言葉の裏を、勇二郎はとっくに見抜いていた。その感情は彼にも覚えがあったから、なおさらわかりやすかったかもしれない。
「でも、ここでの粗末な暮らしが本当に彼女の幸せなのか、もう一度考えた方がいい。記憶がよみがえれば彼女は食うのにも困る作家の妻ではなく、紡績で財を成した実業家の令嬢だ。裕福な暮らしをしていたお嬢様は、きっとこんな生活に嫌気がさすと思いますよ」
時景は言い返すこともできず押し黙った。勇二郎はため息をつき、背広の胸元から茶封筒を取り出す。
「これ、どうぞ。仕事です」
「……は?」
「出版社に勤める知人が、新しい少年誌に軍記物を連載してくれる作家を探していたのであなたの名前を出したんですよ。原稿料さえ入ればもっとマシなものを食えるようになるでしょう?」
勇二郎から仕事を貰うなんて癪だ。しかし、琴乃と共に生きていくためには……と時景は渋々受け取る。彼が茶封筒を手に取ったとき、勇二郎は満足そうに鼻で笑っていた。勇二郎は「それでは」とさっさと帰っていく。時景と同じ空気を吸うのも嫌らしい。
彼が帰宅してから、疲れ果てた時景は居間に寝ころび、天井を見て大きく息を吐いた。勇二郎の言う通り、琴乃は、元々は裕福な家の一人娘。記憶が戻ったら、この生活についていけなくて泣いて暮らすことになるかもしれない。「今の彼女」だって、粗末な家で愛想の悪い素性もよく分からない貧乏作家と共に暮らすのは嫌だと思っているかもしれない。
彼女は今、幸せではないかもしれない。何が琴乃にとっての幸せなのか……自分の心の奥深くに問いかけ、時景はあることを思い出していた。
それは、彼自身の願いだった。




