第三章 ②
琴乃とテルは顔を見合わせる。テルは不思議そうな顔をしていた、どうやら彼女も初めて聞く話らしい。二人とも、ちゃんと話を聞こうと自然と背筋が伸びていく。
「大戦で脚に怪我をしちまってな。そのせいで帰国してからもろくな仕事にもつけなかったんだ」
「マスター、従軍していたんですね」
「あぁ。徴兵前に働いていた工場も潰れて、帰る場所もなくって……俺は浮浪者みたいになっていた。一発逆転を狙おうと賭博で金をすって一文無しになって、借金踏み倒そうと逃げようとしたこともある」
「はぁ!?」
テルの驚くような悲鳴。琴乃はびっくりして声も出せなかった。きっちりとした身なりで喫茶店のマスターとして働く克治に、そんな無責任な過去があったとは。
「でも逃げきれなくってな。悪いことはできないってことよ。それでやくざ者に取っ掴まって絡まれている時に、ある女の人が一人で俺を助けてくれたんだよ。颯爽と現れて俺たちの間に割り込んで、こうかっこよく啖呵を切ったんだ。『大日本帝国の男児として恥ずかしくはないのですか!』ってな具合に」
「それは、とても勇ましい女性ですね」
時景の物語に出てきそうだ。琴乃も憧れてしまう。
「それで、擦りむいて怪我をしていた俺に真っ白で皺ひとつないレースのハンケチを差し出してくれて……でも、俺、逃げたんだ。ハンケチを奪って」
「どうしてよ? みっともないオッサンね~」
「みっともないからだよ。女に助けられたのが恥ずかしくって、その場から逃げ出して……とても後悔した。まともな生活をしない自分も、借金を踏み倒そうとする自分も、助けてくれた人に礼を言えない自分も、全部恥ずかしくてみっともない。だから、俺はあの人みたいに一人で何にでも立ち向かえる強い人間になりたいなって思ったんだ。まずは借金を清算して、一人で商売でもやってやろうと思ってここに店を開いた」
喫茶ロマン堂。あのボロボロに見える看板も、克治が一から手作りしたらしい。
「ここら辺には喫茶なんてなかったからな。商機だと思ったんだよ」
「じゃあ、オッサンがウチの事助けてくれたのは……もしかして、その女の人のまね、とか」
「おう」
テルは思い出す。親に女郎屋に売られそうになって逃げだしたまではいいけれど、まともに読み書きもできない少女が真っ当な仕事に就くことができるはずもなく、行き場もなく彷徨っていた頃のこと。今日一日、どう生き抜いてやろうかと駅の前で座り込んでいたところ、テルは克治に声をかけられたのだ。どこも行くところがないなら、うちで働いてみるか? なんて言っていた。初めは彼のことを疑ったけれど、ともに過ごすようになって徐々に信頼するようになって、今では軽口を叩きあう仲になった。
「あの時のお前が、昔の俺みたいに見えたんだ。俺も嬉しかったよ、お前を助けることができて。まるであの人になったみたいだった」
「じゃあ、オッサンがあの未練がましく持っているハンケチって」
「あぁ、あの人のハンケチだ。いつか彼女に返して礼を言う、それが今の俺の夢だ」
テルに読めない文字が刺繍されている真っ白のレースのハンケチ。そんなに大切な物とは知らず、何度も笑ったことをテルはこっそりと反省していた。
「じゃあ、ウチが今ここにいるのも、その女の人のおかげなんだね。……なんか、コトちゃんに似てるね、その人」
「私?」
「オッサンの話に出てきた女の人、この前ウチを助けてくれた琴ちゃんそっくり!」
「本当に? そうだとしたら嬉しいかも」
ニコニコと笑って話している琴乃とテルを見て、克治はわずかに笑みを浮かべた。テルが彼の視線に気づく。
「なによ、そのいやらしい笑い方は」
「いや、別に。まあ、俺が言いたいのは、コトちゃんも自分がなりたい姿を想像してごらんよってことだよ」
「なりたい、姿……」
「そう。なりたい自分を想像したら、おのずと自分がどうしたいのか、どうするべきなのか、わかるようになる」
琴乃は想像する。自分のなりたい姿、を。克治を助けた女性のような、まるで時景が描いたヒロインの姿が思い浮かぶ。たとえどんなに険しくても新たな道を拓いていく力強さと、愛を貫き通す心の逞しさ。きっと彼女たちならば、自らの運命を受け入れるに違いない。
私も、そうなりたい。琴乃はそう思う。もし貫いた結果、彼と離れてしまうことになっても。真実を知ったら、彼とはもう今まで通りの関係ではいられなくなるだろう。仮初の夫婦という関係にいつか終わりが来ることは分かっていたけれど……今がその時なのだ、と琴乃は覚悟していた。
彼の本当の妻になれなかったらその時は……自分は喜んで身を引こう。憐憫の愛情を向け続ける日々は彼にとっても負担だろう。きっとその方が時景のためになるはずだ、と。それぐらい大きな覚悟をあらかじめしておけば、本当にそうなってもきっと心は痛まないはず。
「頑張ってみます。ありがとうございます、テルちゃん、マスター」
「ううん! 上手くいくといいね」
「はい!」
***
琴乃がロマン堂で決意を固めた頃、時景は自室にいた。マサも買い物に行ってしまい一人っきり。家の中は静まり返っている。仕事も行き詰り、時景は先ほど三郎が持ってきてくれたばかりの事件資料を読み直していた。史弥の仕事が忙しい時は、三郎が代わりに持ってきてくれるのだ。
しかし、その中にめぼしい情報はない。もう証拠品も目撃情報も出尽くしてしまって、警察もあぐねているようだ。事件解決は時間が過ぎるとともにどんどん遠ざかっていく、時景はそんな不安を抱く。ため息をついていると、玄関から声が聞こえてきた。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか?」
若い男の声だが、三郎のものではない。誰だろう、と時景はぼさぼさの髪を手櫛で整えながら玄関に降りる。引き戸を開けると、身なりがとてもいい若い男が立っていた。時景はぎょっと目を大きく丸める。若い男は帽子を脱ぎ、軽く頭を下げた。
「鷹栖勇二郎さん……?」
「ご無沙汰しております、英先生。琴乃さんのことで、少々話があるのですが」




