第二章 ⑥
琴乃の様子を見て、時景は胸を撫でおろす。目覚めてくれて良かった。琴乃は、自分が布団の中にいることに驚いていた。居間にいたはずなのに、どうして自分の部屋にいるのだろう? 起き上がろうとすると、時景が心配そうにその背中を支えていた。気づけば三つ編みも解けていた。
「気分はわるくないですか? 水、飲みますか?」
「え? あ……」
喉が渇いて張り付く感覚がある。琴乃がおずおずと頷くと、時景は水差しからグラスに水を注いでそれを彼女に渡した。一口飲んでから、琴乃は抱いていた疑問を口にしていた。
「あの、どうして私はここに? 居間で西さんのお話を聞いていたはずでは?」
「倒れたんです、琴乃さんは」
彼の言葉に戸惑う琴乃。そんなこと、全く覚えていないし、どうして倒れたのか心当たりもない。首を傾げている琴乃に向かって時景は勢いよく頭を下げた。
「申し訳! ……まだ事件の話をするのは早すぎたんです」
「いいえ! 先生は何も悪くありません、そもそも私が事件の話を聞きたいと望んだのですから。……それに、何も参考にならなかったみたいで、私こそ申し訳ないです」
「いや、頼むから謝らないで、琴乃さん」
静まり返る部屋。時景は琴乃の手を取り、大きな手で包み込んでいた。彼のぬくもりに触れ、琴乃は自分の手が氷みたいに冷たくなっていることに気付いた。彼の温かさはゆっくりと琴乃の身と心に染みこんでくる。でも、じっと手を握られることに慣れていなくて、琴乃は恥ずかしくてせわしなくあたりを見回し始めた。窓の向こうの夜空を見上げると半分にかけた月が高く昇っている。史弥の話を聞いていた時はまだ昼間だったのにそんなに長く眠っていたなんて……と琴乃は月を見つめる。
時景は、その横顔が美しいと思った。さやかな月の明かりを浴び、白い肌がうっすら光っているように見えた。それが彼の目にはいつも以上に魅力的、煽情的に見えてしまった。自分の中にふつふつと湧き上がる劣情を抑えるように、時景は大きく息を吐きだす。
「月ひかり 落ちる黒髪 うつくしき ふれずとわかる しろきやわ肌」
「……え?」
「あ……」
息を吐きだそうと思っただけなのに、口からはするりと歌が溢れてしまった。琴乃もぽかんとしている。
「先生は短歌も詠まれるのですね」
「いや、今のはどうか忘れてください」
月明りに照らされる彼の顔は、いや顔だけではなく耳や首も真っ赤に染まっている。とても恥ずかしかったようで膝を抱えて顔を隠し、小さくなってしまう。琴乃はその姿を見て、微笑ましく思った。
彼が今詠んだのはまごうことなき恋の歌だった。自分を見つめながら彼が詠んだ恋の歌。嬉しい、琴乃も頬を紅色に染める。耳も熱い。熱を逃がすように琴乃は耳に髪をかける。胸もドキドキと騒めいて止まらない。目を閉じても、先ほど恋の歌を詠んでいた彼の声が鮮明に蘇る。どうしてこんなにも嬉しく思うのだろう? 琴乃は熱っぽく息を吐き、すぐに答えに辿り着いた。
好いた男性から恋の歌を向けられて、喜ばない乙女はいない。ふつふつとこみ上げてくるあたたかな想い。琴乃は胸に手を当てる、この想いは間違いなく『恋』だ。
でも、その胸を占めたのは「幸せ」よりも「不安」が大きかった。自分のことも分からず、両親を殺した犯人も分からず、まるで役に立たなかった自分。そんな自分が恋をしてもいいのだろうか? 自分に何ができるのだろうか? 琴乃は再び月を見上げる。まるで救いを求めるように。
その光は優しかった。時景も同じような優しさで琴乃を包んでくれている。けれど、それを受け取っているだけで彼女は何も返せてはいない。いつかそれを返せるような、ちゃんとした立場の人間として彼と共にありたい。
琴乃の本当になりたいものは、彼が描くヒロインではない。彼の「お嫁さん」なのだ、と心の底からそんな望みが湧き上がる。
だから、まずは……琴乃はまだ小さく縮こまっている時景を見て、決意する。琴乃と時景、二人の本当の関係がなんだったのか知る必要があるのだ、と。
仮初の夫婦になる前の自分たちは『何者同士』だったのか。
そしていつか、仮初ではなく本当の妻になりたい。琴乃は月に願いを込める、お月様だけが自分の願いを知っている。それが琴乃には心強かった。




