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第一章 ①


 目を覚ました時、古ぼけた木目の天井が彼女の目に飛び込んできた。消毒液の臭いが鼻につき、とても固い寝台ベッドで横になっている。彼女は、ここがどこなのか分からなかった。

 初老の女性が心配そうに彼女を覗き込む。「あなたは誰ですか」と彼女が尋ねたら、初老の女性は叫び声をあげながら部屋から出て行った。重たい体を起こし、彼女は周囲を見渡す。頭がズキズキと痛み、触れるとそこには包帯を巻かれていた。どうして? その理由も彼女には分からなかった。

 見たことのない部屋だった。真っ白な布団に、鉄枠の寝台ベッド、木目の壁。何も心当たりがない。ぼんやりと座り込んでいると、今度は男の人が飛び込んできた。こちらも、見たことのない男だった。彼は大きな旅行鞄を持ち、きっちり外套を着こんでいる。旅の装いみたいだ。目が合った瞬間、彼は安堵するみたいに大きく息を漏らした。口元に柔らかい笑みを浮かべて、彼女の寝台に近づいてくる。彼女はそれが恐ろしくて、震える声で尋ねていた。


「どちら様ですか?」


 不安に駆られて思わず飛び出した言葉。彼は足をピタリと止めて、目を大きく丸めて驚愕の表情を見せる。顔は青ざめ、口元が震えていた。彼女の言葉に、強い衝撃を受けた様子だった。なぜこんなに愕然とした表情を見せるのだろう? 彼は、自分にとって何者なのだろう? そう考えた時、彼女の心がサッと冷たくなった。


 気付いてしまったのだ――彼女は、自分の名前すらもわからないということに。


 分からない。自分が一体何者なのか。名前も年齢も、家族の存在も、何もかも。


 これが、彼女……琴乃ことのにとっての「始まりの記憶」である。


 ***


 窓から差し込む夏の朝日で琴乃は目を覚ました。眠たい目をこすりながら先ほどまで見ていた夢を思い出す。久しぶりに病院で目覚めた時の夢を見た気がする……琴乃は起き上がりわずかに痛む頭を抑えた。

 寝間着から山吹色の着物に着替えて、櫛で髪をとかして、頭の後ろで三つ編みを結い赤いリボンで結ぶ。自分の部屋がある二階から台所のある一階に向かう前に、彼女は大切なことを思い出して玄関に飛び出していく。

 今日は日曜日! 琴乃が一週間で一番楽しみにしている日。郵便受けに差し込まれた新聞をうきうきと抱え琴乃は台所に向かう。


「マサさん、おはようございます」

「おはようございます、琴乃様」


 台所では、この家の女中であるマサが朝食を作っていた。


「手伝いますね」

 

 琴乃は新聞を居間に置く。たすき掛けをして袖をまとめようとしたとき、マサは首を横に振った。


「こちらは大丈夫ですから。琴乃様は『先生』を起こしてきてくださいませ」

「分かりました」


 マサに言われた通り、琴乃は再び二階に向かう。彼女の部屋の隣が『先生』の部屋。琴乃はふすま越しに声をかける。


「先生、おはようございます」


 しかし、彼の返事はない。琴乃は小さく「失礼します」と呟きながらふすまを開けた。

 いつ見ても整然とした部屋だ。壁一面に並んだ本棚にはびっしりと本が並んでいて、本の一冊、ごみのひとつも落ちていない。書き損じの原稿用紙はすべて屑入れに収められている。布団もきっちり敷いてあるが、それが使われた形跡はない。琴乃は部屋の奥に視線を向ける。奥にある文机に突っ伏している男が一人。


「先生、朝ですよ」


 近づいて彼に声をかけるけれど、反応はない。文机の上には原稿用紙が積み重なり、万年筆のインク壺は空になっている。きっと夜遅くまで執筆をして、そのまま眠り込んでしまったに違いない。体を壊したりしないかしら? と琴乃は案じる。部屋はきっちりとしているが、彼は自分のことに対しては無頓着だ。


「先生っ!」


 今度は少し大きな声で呼びかける。彼はハッと顔を上げる。琴乃と目が合うと、彼はまるで恥じるように少しだけ身を引いた。


「……おはようございます、琴乃さん」

「おはようございます、先生。もう朝食の支度が整いますので」

「分かりました……顔を洗ってきます」


 彼はまだ覚醒しきっていないのか、ゆっくりと立ち上がる。琴乃はその背中を見送ってから原稿用紙の山をチラリと見た。それを読んでしまいたい気持ちがこみ上げてくるけれど、今は我慢。この素敵な作品はもうすぐ新聞に載るのだから、それまで楽しみに取っておこう。

 居間に向かうと彼はもうちゃぶ台の前に座っていた。琴乃も正面に座る。彼の座布団の近くには先ほど取ったばかりの朝刊がそのまま置いてある。楽しみだなぁ、早く読みたいなぁ。心は華やいでいく。


「今週のお話も楽しみです、はなぶさ先生」


 この新聞には目の前に座る「先生」こと作家・英 時景ときかげの小説が掲載されている。

 琴乃と共に暮らす彼は小説家だ。日曜日は彼の連載小説が太陽新聞に掲載される日。琴乃はそれを読むのが一番の楽しみだった。

 琴乃の言葉に不愛想な彼は頷くだけ。だが、瞳はかすかに緩んでいた。わずかな変化を見逃さないよう琴乃は彼を見つめる。琴乃が彼と一緒に暮らすようになってまだ一年経っていないけれど、彼の感情の変化はすぐに読み取れるようになった。彼は典型的な「目は口ほどに物を言う」人間、目さえ見たら感情の変化は分かる。これはきっと「嬉しい」に違いない。彼は顔を上げて、琴乃を見る。一瞬だけ視線を通わせ、彼はわずかに微笑んだ。なんだか気まずくなってしまい、琴乃は顔を伏せた。


 どうして? あの日目覚めてから、何度も琴乃は同じことを考える。

 どうして財すら持たない、記憶を失ってしまった私を見て、先生は嬉しそうに微笑むのだろう?

 どうして彼の柔らかな表情を見るたびに胸が弾み、自分も嬉しいと思ってしまうのだろう?


 私は彼にとって、どんな存在だったの?


 この問いを、心の中でずっと繰り返している。病院で目覚めた日から、琴乃には分からないことばかりだ。



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