込山翔子の話
込山翔子の足取りは軽くも重くもあった。そんな中途半端な状況に直面している理由はただ一つ。
人間関係である。
今に至るまでを説明するには、少々自分語りをしなければならない。
翔子は中学生の時、同級生から完全に孤立していた。いじめられていたり、迫害を受けたりしたわけではない。特定のグループに入れないだけで、クラスメイトとの会話は成立した。ただ単に、親友と呼べる友人を作れずじまいだったのである。翔子は完全に皆んなの興味の対象外だった。理由は自分でもわからない。小学生までの翔子は、大人しくて優しくて、内気ではあるけれど友達の多い女の子だった。なのに、どうして急に友達がいなくなってしまったのだろう。休み時間は一人なので、翔子は三年間熱心に図書室に通い、本のを読み漁り始めた。友達と談笑する人たちを気にしないようにするために、外の世界を出来るだけ遮断し、自分の心に閉じこもった。だが、いくら本を読んで殻に引きこもったとしても、現実は変わらない。それでは何の用もなさない。なのに、現実逃避するしかできない自分が大嫌いで、こんな生活はすぐにでも終わらせたかった。
取り戻せる。小学生までのあの頃を。きっと、きっと、きっと。
そのために、翔子は高校デビューを狙った。独りぼっちはもうこりごりだ。友達がいないという恥は二度と晒したくない。
休み時間に、興味もない本の文字をひたすら追う作業をしなくていいように。グループ分けのとき、一人だけ余ってしまい、どこのグループにも入れないなんてことが起こらないように。
何事も始めが肝心という。だが、周りに積極的に話しかける勇気は翔子にはなかった。だから、翔子はある処世術を身につけた。
どんなことでも相手に合わせる。空気を読み、相手に共感するためならば嘘でもつく。
努力の甲斐あって、翔子は早い段階で女子グループに所属することができた。しかも、七人ほどいる大グループにだ!
しかし、その時翔子は知らなかった。人が本性を隠して何かを装っていると、いずれその装っているものの方が本性になってしまうのだということを。
いつしか翔子は自己主張がなく、空気のような存在になっていた。大人しく無難で、とらえどころのない無気力な人間になった。
側から見れば単なる仲良しグループに見えるだろう。何の不自由もない、仲睦まじい女子たちだ。
しかし、その内側に潜む優越と根深い嫌悪を知らない。
翔子はグループのカースト最下位だった。しかし、翔子はグループを抜けられなかった。二度と独りぼっちにはなりたくなかったから。気が小さいのだ。臆病なのだ。
辛かった。当たり障りのない会話の中に、いつも無言の嘲りを感じた。言葉に、声にしなくても、翔子には分かる。皆んなが翔子を見下し、笑っているのだ。
その辛さが翔子の精神の存立にかかわることになったのは、ここ数日の間だった。
翔子の派閥のボス格に君臨しているのは、のんちゃんである。のんちゃんは可愛くて、成績も良くて、スポーツもできる。優等生とは、彼女のためにある言葉だ。だが、彼女は少々片意地で毒気があった。
ある日、のんちゃんは図書館の本を真っ二つに裂いた。のんちゃんは前の授業で課題を忘れ、先生に説教されたことでイライラしていた。それで、ふざけて本を真っ二つに裂くふりをしたら、本当に裂いてしまったのだ。
「あ~あ、先生に怒られるわ」
のんちゃんは裂けた本を乱暴に机に投げ捨てた。
その時、翔子はのんちゃんと目が合った。のんちゃんの目が一瞬、獲物を捕らえる野獣のように光った。
「ねえ、翔子がやったことにして、私の代わりに先生に怒られてくれない?」
拒絶するなら、アンタのことをハブいてやる。
のんちゃんの目がそう告げていた。
翔子は絶望した。信じられなかった。これ以上に酷い仕打ちがあるだろうか?
だが、のんちゃんの取り巻きも次々に賛同した。このグループの中には、翔子を護ってくれる人は誰もいないのだ。
――犠牲者として選ばれたのが私ではなかったら、同じように賛同していただろう。
翔子が返事をする間もなく、司書の先生が来た。
「あなたたち、何をやってるの!」
翔子が口を開く前に、のんちゃんが
「翔子が本を真っ二つに裂いたんです!」
と叫んだ。
翔子は司書の先生に怒られた。担任の先生にはもっと怒られた。両親には頬をひっぱたかれた。
それらの様子を見て、のんちゃんは満足そうに笑っていた。
翔子がやったことではないと、これは濡れ衣だと――言えなかった。そうすればのんちゃんの怒りを買うことは火を見るより明らかだったし、真実を打ち明ける勇気がどうしても湧かなかった。
心の奥底に黒い澱が溜まるのを感じた。
独りぼっちになりたくないだけ。友達と平和に仲良くしたいだけ。なのに、何でこんな目に遭わなければならない?
独りが辛いからこんなに努力しているのに、その結果がこれだ。結局どうあがいても無駄だった。翔子は翔子のままで、ずっと変われないのだ。
のんちゃんといる時間はさながら拷問のようだった。彼女の姿を見る度に、自分の卑小さや無力さを思い知らされるようだった。きっとのんちゃんは分かっているのだ。翔子が決してグループから抜けられないことを。抜けたくても、翔子には決してそれが出来ないことを。だが翔子は一刻も早くのんちゃんから離れたかった。だから、今日は体調が悪いと偽り、一人で帰っている。うっかりのんちゃんたちと会わないように念のため、違う道を選んだ。今まで一度だってこんなことはなかったのに。
だから、のんちゃんに対する憎しみと自己嫌悪から解放されたという意味で足取りは軽く、それでも悪化するばかりの状況は何ひとつ変わっていないという事実が直面しているという意味で足取りが重くもあるのだ。
そんな翔子にとって、最も癇に障る存在が笹井可奈だった。彼女は常に一人でそっぽむいている。なのに、それを恥じるどころか気にする様子すらがない。むしろ、その方が気がラクだと思っている節もある。
私は独りぼっちが嫌でこんな目に遭ってるのに、どういうつもり?何でそんなに平気なの?もっと苦しみなさいよ。私みたいに、もっと独りでいることを恥じなさいよ!
本当は知っていた。翔子は可奈が羨ましいのだ。可奈のように、一人でもへっちゃらなくらい強くなりたかった。一人でもいいのだと、それは恥ずかしいことではないと思いたかった。
だって、だって、のんちゃんだけじゃない。陰で皆んな翔子のことを軽んじて、馬鹿にしている。
翔子ちゃんはトロいから一緒にいると苛々するって言ってるのも、私、知ってるんだ。
翔子はふらふらと歩いた。住宅地の間に小さな公園があるのを見つけて、つい足を止めてしまった。
何やってんだと思いつつも、公園に引き寄せられている自分に気が付いた。