真実
「目を背けないで、現実を直視しなさい」
頭を鈍器で殴られたような衝撃が可奈を襲った。頭が痛い。
横から少年の声が聞こえた。わずかであるが怒りが伝わる。
「どうして、そんなにこの子を追い詰める?」
「この子が自分でこうすることを望んだ。 そうだろう、笹井可奈」
その時、肩に手が乗った。少年が可奈の肩を抱えたのだ。身体の力が抜けた。頭の痛みも和らいだ。
どうしても、今は誰かに頼らないとこの場にいられない。
少年は厳しい目つきでメルヘン女性を見据えていた。
「可奈は全てを思い出すまで帰ることはできない。 でも、自ら思い出せないのなら私が思い出させる。 私が可奈の記憶を引っ張り出す」
「その前に」
食い気味に少年が割り込んだ。
「その前に、ここがどこなのかを教えてよ」
少年の手に力がこもった。可奈とメルヘン女性の間に割って入ろうとしてくれている。中和しようとしてくれているのだ。
メルヘン女性の顔に怒気が浮かんだ。口元が歪め、少年を睨む。しかし、少年は怯まなかった。メルヘン女性の厳しい視線を真っ向から受け止めた。
メルヘン女性は真顔になり、口を開いた。
「私のことはユキって呼びなさい。 呼び名がないと不便だから」
はっきりと命令口調で言った。不意にユキは可奈たちに会わせて座り、胡坐をかいた。
「ここは、自我を失った人が来る場所。 程度や理由は違っても、ここに来る人は全員不安や不満、悩みを抱えている」
「公園にいた人たちは、それぞれ不安や悩みを抱えてるってこと?」
気を取り直すように額の汗を手で拭って、少年が聞く。
ユキは口を閉じ、少し考え込んだ。
「誰もが自分の心の世界を持っている」
その声があまりに小さかったので、よく聞かなければ風の囁きかと思うところだった。思わず、可奈と少年は顔を見合わせた。
「『虚無』という宇宙に、『可奈の心』という惑星が存在する。 『虚無』の中には『自我を失った人の心』が他にも沢山存在している。 けれども、ここは可奈だけの世界であり、『自我を失った心』が存在していることと、『可奈の心』に現れる人は、まるで関係ない」
ふいに浮かんだ疑問を、そのまま口にしてみた。
「公園にいた人たちは、私が話しかけても全然反応しなかった。 それは何故なの」
「それは、可奈に影響を与える大きさを表している。 『可奈の心』に現れる人たちは、少なからず可奈に影響を与えた人もしくは、これから影響を与える人。 その人が、可奈に与える情報量によって、与える影響の大きさが変わる」
影響を与える――今までで一番情報をくれているのは誰か。おそらく少年だろう。可奈を導き、助けてくれる。
そこで思い直した。
いや、違う。
一番影響を与えているのは。目の前にいるメルヘン女性――ユキだ。
「でも、この人は自由に話すことができる。 それは自我を失っていないということなの」
可奈は少年を指さして問う。
「いいえ」
その言葉に少年は強く反応した。びくりと頭を跳ね上げる。
「この人も自我を失っている。 だけど、彼が自我を失っていることとこの場に存在しているのは無関係。 さっきも言ったじゃない」
つまり、少年は可奈に何らかの影響を与えた、または、これから与え得る人間ということだ。
「可奈はまだこの人と知り合っていない。 だから、わからない。 でも、可奈は私のことは知っている、必ず」
「ユキは自我を失っていないの?」
ユキは回答というより、いっそ可奈を追い詰めるように鋭く言った。
「私は自我を失ってはいない。 死んでいるのだから」
その言葉は、痛いほど可奈に重く圧し掛かった。
死んでいるのだから。
「だから、私は虚無の中に存在することができる。 永遠に虚無の中に彷徨い続ける」
そこで、ユキは舌打ちをするような顔になった。
「まだ、思い出さないのか。 さっきみたいに、可奈は私の死ぬ瞬間を見た。 私の死体も見たんだ」
その時、今の今まで脱落していた記憶が走馬灯のように流れ込んできた。忘れていた記憶。失われた体験。確かに、可奈はユキのことを知っていた。彼女の肉塊となった身体を見た。だって、彼女は、彼女は――
でも、そこで疑問が生まれた。なぜ、可奈はこの記憶を失っていたのか。こんなに衝撃的な記憶を忘れるはずがない。むしろ、海馬に刻み込まれるほど鮮やかに覚えるはずだ。なのに、どうして記憶の喪失に何の違和感も感じなかったのか。一体これまで、どのように高校生活を送っていたのだ。
首がぐらぐらするほど、激しく揺さぶられた。
「大丈夫⁉︎」
自分の世界に入り込んでいた可奈は、少年の鋭い叫びに我に返った。
少年が顔を覗き込んでいた。
「どっか行っちゃいそうな顔してたよ」
「思いだしたんだね」
ユキが鋭く口を挟んだ。
「思いだしたのなら、可奈はもう現実に帰る事ができる」
心配そうに可奈の様子を窺っていた少年が、これには驚いた反応を示した。え?という声をあげる。
「そんなにあっさり?」
ユキはジョークでも聞いたみたいに、短い笑い声を放った。
「可奈がここに来たのは、記憶を取り戻すためだ。 アフターケアなんて期待するなよ。 まあ、でも」
続きを言うまでに間があった。
「現実に帰ったら、ここでの記憶は無くなる」
「はあ?」
少年が掴みかからんばかりに、腰を上げた。
「じゃあ、今思い出した記憶も無くなるの?」
「そう」
「ふざけるな。 だったら、こんなところに来てまで記憶を取り戻す意味がないじゃないか」
「意味はある」
説得するというより、叩き潰そうとするようにユキは言った。
「ここで記憶を取り戻せば、可奈のなかの虚無が消える。 実体としては何の意味もないかもしれない。 だけど、可奈の中に深く刻まれた記憶の虚無は無くなるんだ」
まあ一万人に一人くらいは記憶があるかもね、と吐いて捨てるようにユキは言った。
まだなお言い募ろうとする少年を強引に遮るように、ユキは腕を伸ばして示した。
「お帰りはあちらだよ。 あのビルの入り口から現実に戻れる」
「ちょ、ちょっと待って」
可奈は慌てて止めた。
「この人は?」
可奈は、ふてくされたままの少年を見た。
「私が虚無から脱出できるのはいいけど、私がいなくなったら、この人はどうなるの」
「この世界もろとも消える」
その言葉はあまりに残酷で、無慈悲だった。
確かに、ユキの話からするとこの少年は実体ではない。あくまで可奈に与える影響の大きさを示唆するためにいるのであって、本来の少年はまた別に存在する。だがいくら虚像とはいえ、可奈を心配し助けてくれたことに変わりはない。そして、可奈を本来あるべき道に導いたのもこの少年だ。どうして、無感情で見捨てられよう。
「嫌だ」
ユキはあからさまに面倒くさい、という顔をした。不機嫌を剝き出しにして可奈を睨みつける。
「まあ、100%消えるのを防げないわけではないけど」
「何をすればい」
「この人の名前を思い出せばいい」
理解不能。
「だってさっき、まだ知り合ってないって言ってたでしょ。 分かるはずがない」
「私は、不可能なことは言わない。 確かに知り合ってはいないけど、出会っていないわけではない。 可奈は必ずどこかでこの人と会っていて、名前を耳にしている」
「だったら……」
すると、何かが腕に触れた。他に誰がいるわけがない。少年だった。
「もういいよ」
少年は気負う様子もなく静かに言った。
「ありがとう。 そこまでしてくれて。 でももう大丈夫だから」
「何が大丈夫なのよ、バカ!」
少年の手を振りほどき、彼の肩をつかまえて、さっき自分がされたのと同じように揺さぶった。
「なんでそう簡単に諦めるの? 消えたくないって思わないの? ユキの言われるがままで、振り回されて、悔しくないの?」
少年はまったく抗わなかった。揺さぶられるままになっていた。
そのうち可奈は揺さぶるのをや止め、すぐに肩をつかんでいた手も緩んでしまって、自分の足元を見つめた。
「――思ってるよ」
頭の上で、少年の声がした。かすれて、かろうじて聞き取れるくらいの声だった。
「消えたくないって思ってる。 何もできないことが悔しいって思ってるよ。 でも、ユキが言っているとおり、僕はきっと虚像なんだろう。 本当なら、ここに僕はいないはずなんだ」
だから――と言って、詰まった。
可奈は少年を仰ぎ見た。血の気が抜け、表情が消えて、それでも少年は真っ直ぐに立ち、可奈に向き合っていた。
「君はすぐにでもここから出るべきだ。 こんな虚無の世界、虚像の世界になんかいちゃいけない。 自分の人生に戻って未来に進んで行くんだ」
まだ食い下がろうとする心に、残酷な疑問が蘇った。
少年は虚像である――本当にそうだろうか?虚像は、消えたくないと、悔しいと思うのだろうか。虚像は、こんなにも悲しそうな顔をするのだろうか。
もしそうならば、可奈がこの場を去ることで、度々可奈を助けてくれた少年に対してとんでもなく酷い仕打ちをすることになる。
そんな可奈の思考を見透かしたかのように少年は言った。
「余計なことは考えなくていいんだ。 君は君自身のことを見ていればいいんだよ」
少年は可奈をビルの入口に押しやる。抵抗したが無理だった。体格もつりあうし、力が強いわけではないが、頑として動かない意思を感じた。
何で抗わないんだ。何で消えない努力をしないんだ。
とうとう可奈の左足が先に敷居を跨ぎ、すぐに右足も通った。
「本当にありがとう。 ばいばい」
少年は最後にそう言った。
徐々に現実感が戻ってきた。視界が歪む。記憶もぼんやりし始めた。
「あっ、あんたは……」
* * *
可奈は一人、ぼんやりと教室を眺めていた。クラスメイトはそれぞれ仲の良い人たちと談笑している。だれも可奈に話しかけようとしないし、可奈も話しかけない。それが当たり前の光景だ。
チャイムが鳴り、ホームルームの時間になった。がたがたと生徒は自席に座る。その時、教室の前のドアががらりと開いて、出席簿を手に担任の先生が入ってきた。ここまではいつも通り。だが、可奈はドアの曇りガラスに人影が映っていることに気が付いた。誰かいるのだろうか。
「おはようございます」
先生は姿勢をしゃんと正して挨拶をした。そして、両手を教卓の上に突っ張ると、
「転校生が来ていて、今日からこのクラスで授業を受けます」
と切り出した。
教室のざわめきが、興味と興奮の響きを帯びる。
先生が手を上げて合図すると、男子生徒が入って来た。
小柄だった。男子というより少年という感じがする。
雪のように肌が白く、頬や唇は程よく色づき、真っ黒な髪を持っている。美少年の類に入ることは確実だ。
転校生の顔をじっと見ていると、思い出した。
まだ一年生のとき、二月頃だったか、彼がこの高校に来ているのを見たのだ。
そのときは偶然委員会があり、帰るのが遅かった。
そんな折、彼と教室から下駄箱までの道のりで出会った。生物の実験室の前で、人気はなかった。普段でも、教室を移動するとき以外で人が通ることはほぼない。その廊下の向かいから、学年主任の先生と一人の男子生徒が一緒に歩いてきた。その男子生徒の制服が可奈の高校と違い、珍しかったからこうして記憶に残っているのだ。
可奈が挨拶すると、先生に合わせて、男子生徒も軽く会釈を返してきた。
そう、そしてすれ違った後、主任が男の子の名前を呼ぶのを聞いたのだ。
この子の名は――
男子生徒はためらいがちに少し前に出る。
「角田涼平です」
名乗って、彼は一礼した。
簡単に自己紹介をした後、先生の指示に従い、涼平は新しい席に着いた。可奈の隣だった。クラスメイトの人数の関係で、可奈の隣の席がずっと空いていたのだ。
だが、積極的に話しかける気はおろか、仲良くする気もなかった。無論、困っていたら助けるし、何か質問されれば答える。しかし、親しくするつもりは毛頭ない。
ホームルームが終わり、相変わらず教室をぼんやり眺めていると、どこからか視線を感じた。顔を上げると、涼平がじっと可奈を見つめていることに気づいた。
何?
目が合うと、涼平は穏やかに問いかけた。
「名前、なんて言うの?」
「……笹井可奈です」
涼平は柔らかく笑った。
「よろしくね、可奈ちゃん」