ピエロと魔法使い
「これ、家族と遊園地に行った時のお土産」
「何コレ?」
「遊園地のイメージキャラクターだよ」
それは、魔法使いのマスコットキーホルダーだった。紺色の、とんがり帽子とマントを身に着けた男の子がウインクしながら杖を振っている。
雪は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ごめん。 男の子がどんなものが欲しいか分からなかったから、変なもの選んじゃった」
「そんなことないよ。 ありがとう」
涼平は微笑した。
「……でも僕はこっちかな」
涼平は雪の手提げバッグに付いているピエロを指した。記憶にないような頃からずっと付いたままだ。舌を出しておどけた顔をしている。それが、涼平には自分に向かってあっかんべえしているようにしか見えない。
「これが欲しいの?」
雪はピエロを見て小首をかしげる。
「そうじゃなくてさ、このピエロの方が僕に似てるよね」
「どこが似てるの?」
「馬鹿なことをすることでしか、人を笑わせることができないから」
雪は困ったようだった。
「……そんなことないよ」
涼平は慌てて笑顔を取り繕った。
「いいよ、そんなに気を使わなくて」
「違う! だって……」
* * *
白井雪は一風変わったところのあって、時々歯に衣着せぬもの言いをする女の子だった。涼平は彼女と幼馴染だった。
雪は絵を描く。決まって空の絵だ。それはきっと、彼女の願いであり希望だった。雪の絵は美しくて、切なくて、悲しい絵だった。
だが、成長するにつれて、雪は絵を描かなくなった。
その理由を涼平は知っていた。
雪の父親は証券会社の会長だった。そのおかげで、雪は裕福で何不自由ない典型的なお嬢様だった。だが、家庭の内情は外から見ただけでは分からない。雪の父親は躾が厳しかった。それはもう、毒親と言えるほどに。学業においての干渉は特に酷かった。雪に父親は、絵を描くことは無駄だと頭から決めつけ、雪の絵や画材をひとまとめにして捨ててしまった。それを涼平がごみ置き場で発見し、こっそり雪に返したら、大目玉だ。絵の一式の見つけ、雪から事情を聞き出した雪の父親が涼平の家まで訪ねてきて、散々怒られた。おまけにビンタも食らった。なのに、涼平の両親は恐縮するばかりで、庇ってもくれなかった。雪の父親は、雪に一流の大学に行って一流の男と結婚して欲しいと思っている――と雪が言っていた。小学四年生になる頃には、雪の身体に痣ができるようになった。誰が殴ったかなんて、尋ねるまでもなく分かっている。父親に決まっているじゃないか。その時、雪の母親は何をしていたのだろう?一人娘を追い詰め、詰り、殴りつける父親を制し、諌めることはなかったのだろうか。なかったのだ。だから、雪がこんな状態になっているのだ。そう、雪の家庭は、父親だけでなく母親も最低だった。母親の趣味で、雪はいつもメルヘンな格好をさせられていた。雪はそれを心底嫌がっていたのだが、母親は聞く耳を持たなかった。
そんな雪の様子を見ても、涼平は何も出来なかった。
次第に雪は機嫌が悪くなることが増えた。涼平でさえも雪の不機嫌をどう扱っていいか困っていた。
いつしか、顔つきも変わった。実際の年齢よりも、雪ははるかに老成してしまった。一つひとつの仕草が、少女ではなく、世慣れて疲れた中年男みたいになった。そうすることで、雪は自分を鎧っていたのだ。
そして、雪との交流が途絶えることはないものの、二人で会う頻度は大幅に減った。
* * *
「私、引っ越すんだ」
突然雪は言った。
涼平は、一瞬呼吸をするのも忘れた。
「ひ、引っ越す?」
「ウン。 父の仕事の関係で引っ越すんだ。 だから、多分もう、会えない」
何か言葉を返すべきなのだが、何も出てこなかった。
涼平は黙って雪を見た。そこに、覚悟していたような表情はなかった。相変わらず不貞腐れたような顔があるだけだった。
「これ、あげる」
唐突に、雪はポケットにから何かを取り出すと、涼平の手に押し付けた。ピエロのマスコットキーホルダーだった。
「持ってて」
「僕が?」
「うん」
何がなんだか分からないまま、涼平はピエロを受け取った。
「これ、ずっと使ってたやつじゃん」
「そうだよ」
「大切なものじゃないの?」
わずかに間が空いた。
「大切なものだから、あげるんだ」
涼平はピエロを見つめた。やっぱりこいつは涼平に似ている。ピエロはいつも周りの人たちに笑われているから。
でも、周りの人たちはピエロが傷ついていることを知らない。
僕がピエロではなく魔法使いなら、皆んな喜ぶのだろうか。魔法を操る能力を持っていたら、皆んなを幸せにする力があったのなら、皆んな涼平を認めてくれるのだろうか。
「あんたさあ、自分のこと役立たずだって思ってるでしょ」
「……何でそう思うの」
「ずっと見ていれば分かる。 あんたはいつもニコニコしてるけど、本当はちっとも笑っていない」
涼平は思わず笑いをこぼした。
「やっぱり雪は面白いこというなあ」
雪は笑わなかった。
「ずっと太陽が出ていたら周りは明るくなるけど、それを浴びている人は眩しいし、熱くなるだろう?」
「そりゃそうだ」
「日陰に入って休みたいって思う時だってある。 いつも明るくなろうなんて思わなくていい」
私の代わりに――と雪は言った。
「どういうこと?」
「私は涼平とは違う」
雪は鋭く言い放った。
「涼平だって分かってるでしょ。 私は両親に囚われていて、意志を持ってはいけない、そうだろう?」
雪の目を見た瞬間、心の中を寒風が吹き抜けた。どんな種類の光でも跳ね返してしまいそうなほど硬い瞳だったから。
ああ、この人はなんて不幸な顔をしているのだろう。光がない。輝きもない。暖かみもない。
雪は囚われてなんかないって言いたい。それなのに、今の涼平には、それを否定することも、証明する術もない。
なんて気が利かないんだろう、僕の頭は。なんて瘦せているんだろう、僕の心は。
――それでも、どうしても伝えたい。
「ぼ、僕が証明するよ」
「証明って、何を?」
「君は自由だっていう証拠を」
でも、涼平がそれを証明する前に、彼女は去ってしまった。
* * *
涼平は、虚無の世界の記憶がある。ユキは一万人に一人くらいは記憶があると言っていた。本気にしていなかったが、涼平に記憶があるということは、その一万人に一人に選ばれたのだろう。
時々、考えることがある。虚無の世界に入り込んだのは必然だったのか。
ユキは涼平にも虚無があると言っていた。
少なくとも、可奈の世界では涼平は虚像だった。だが、可奈が涼平の名前を思い出したことで、可奈が虚無から抜け出すと同時に、涼平自身も虚無から脱出した。
そんな記憶がなければ、涼平はここまで可奈を気にかけていない。
だから、これはきっと必然なのだ。つまりそれは、涼平の使命でもある。
涼平が自分の名前を認識した瞬間、涼平も全てを思い出したのだ。自分が何者であるのか、雪のことも全て。涼平が虚無から抜け出すとき、ビルの扉に映ったユキの顔。素朴に寂しそうな表情が忘れられない。あれは、本物の雪だった。僕たちに手を貸してくれて、僕たちを導いてくれて。最後の別れを告げたのだ。ありがとう、さようなら。きっと、彼女は魔法使いになったのだ。
僕たちは、再び雪に会えた。
雪と可奈がどういう関係かは分からない。だが、あの時の雪の表情だけで分かる。おそらく、関係性が深い仲であったのだろう。きっと、可奈はユキにとって大切な人なのだ。
だから僕が――
ユキを救えなかった分、可奈を幸せにしよう。可奈の笑顔を取り戻そう。
今度は、僕が可奈の魔法使いになるのだ。
* * *
駅の改札まで来ると、ふと可奈の目線が涼平の鞄に動いた。
「何それ?」
可奈が指差したのは、涼平の鞄についていたマスコットキーホルダーだった。
魔法使いとピエロ。
「これ、どっちも友達からもらったんだ」
涼平は少し考えて、魔法使いのキーホルダーを可奈に差し出した。
「これ、あげる」
可奈は不可解そうに眉を顰める。
「友達からもらったやつなんでしょ」
「そう、友達からもらった大切なもの」
「じゃあ、私が受け取っちゃだめじゃない」
涼平はかぶりを振った。
「大切なものだから、あげるんだ」
可奈は宝物を扱うように魔法使いを受け取った。その刹那、涼平は願った。この魔法使いのように、可奈ちゃんを幸せにできますように。
涼平の手元にはピエロが残った。相変わらず奇妙に笑い、舌を出している。きっと、このピエロにとっては笑うことが当たり前なのだ。どんなに悲しくても苦しくても、反射的に笑うようになっているんだ。でも、これを見る度にそれじゃダメだと雪に言われている気がした。
ピエロは変わらず笑っているが、涼平を小馬鹿にする笑顔でなく、見守るような優しそうな笑顔に見えた。