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とある医者の話

 個人経営のちっぽけな病院。町内にある病院といったら歯医者だけだったので、医者は多忙を極めた。休診日は木曜日と日曜日だったが、急患がいれば診なければならない。一日ゆっくり休めた日など、ほとんどないはずだ。よって、患者も相当数に上る。それでも、印象深い患者は大抵覚えていた。無論、病歴や薬剤を諳んじることはできないが、記憶にはしっかりと刻まれている。

 特に、笹井可奈のことは如実に記憶している。彼女は幼児のころから知っていて、通院歴も長かった。通院歴の長い子は他にもいたが、可奈が特に記憶に残っているのは、その後に悲惨な事故が彼女を襲ったからである。

 可奈が中学生の頃。ある日、クラスメイトの白井雪が屋上から落ちて亡くなった。相当仲の良い友達だったそうだから、可奈が受けた衝撃は並大抵のものではなかっただろう。

 彼女を襲った不幸はそれだけではない。学校という名の社会は時に途轍もなく残酷だ。事故からしばらくして、雪は可奈と喧嘩をし、もみ合いになったから屋上から落ちたのだ――という根拠のない噂が広がり始めた。人を傷つけるのは、大抵が好奇心と悪意。人々はその噂を盲信し、不幸に群がった。だから、他人の不幸は蜜の味というのだ。それが手の届く場所にあれば、子供たちの食指が動くのも簡単である。雪が証券会社の会長の娘だったということも風当たりの強さに繋がったのだろう。時には、下校途中に、雪が死んだのはお前のせいだと囃し立てる者もいたそうだ。一時期は、電話や張り紙がひっきりなしだったと聞いている。可奈の家の窓ガラスに石を投げた者までいたらしい。それを聞いたとき、医者は憤慨した。全て中学生の行為らしいが、これがいじめで済むレベルのことだろうか?立派な迫害であり、犯罪だ。

 その頃から、可奈は始終怯えているようになった。以前はよく笑う子だったのに、笑顔も見せなくなった。

 そして、彼女は記憶障害に陥った。いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。

 通常の範囲を超えた過度なストレスを体験すると、精神がパニックを起こす。すると、脳はその動きの一部を遮断し、パニックを回避しようとする。可奈の場合は、雪に関する出来事の一切に関する記憶の脱落だった。学校での記憶は残っているが、雪の存在と一緒にいた事実のみ、丸々記憶から消去したのだ。

 無論、パニックを回避するのはある種の自己防衛として、悪いことではない。だが、精神機能が麻痺した状態が続けば、心身ともに影響をきたす可能性があるのだ。

 精神療法の方法はいくつかあった。だが、どれも問題があり、実行には移せなかった。まず薬物療法。これは、可奈の年齢を考慮すると副作用の危険があり、腰が引けた。強制的に記憶を引き出す選択肢もあったが、かえって心理的苦痛を喚起してしまいかねず、二の足を踏んだ。結局、自然治癒に頼るより他なかった。

 その治療の途中で、彼女は転居してしまった。医者の立場からしても、転地療法という意味で反対する理由はない。だが、いつかは可奈が自発的に自分自身と向き合うようにし、再び笑顔が見たかった。しかし、転居してしまえば、自分の手が届きようもない。その後の経過については、何も知る由がなかった。

 彼女に想いを馳せる。

 彼女は今、どうしているだろうか。元気だろうか。

 医者は嘆息し、天井を見上げた。

 時間の経過とともに可奈の心が寛解することを祈って。

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