美しき彼女2
それ以来、葵は可奈を憎んでいる。前々から好きではなかった。でも、可奈が雪とつるむようになって以来、はっきりと憎むようになった。
可奈はおしとやかで、優等生で、芯のある女子だ。そんな女が、私から雪を奪っていこうとしている。
悔しい、悔しい、悔しい!
可奈の存在が葵の中で悪性腫瘍のように膨れ上がり、増殖した。
可奈を排除しよう。
待つんだ。きっかけを。チャンスは必ずある。何か些細な事柄でもいい。可奈を傷つけられること。可奈を雪から遠ざけられること。葵は待って、待って、待ち続けた。
そして、神様は葵に手を差し伸べた。
ある日、葵がショッピングをしに隣町に出かけた時である。
雪を見つけたのだ。
不覚にもどきりとしてしまった。町を歩くとき、知らず知らずのうちに雪のことを想ったり、角を曲がったところで彼女と鉢合わせしたら、信号まちの交差点の向こうで彼女が立っていたらと、日常的にそんなことばかり空想しているからだ。しかし、それが現実になると、こんなにも動揺してしまうなんて。
だが、常日頃から彼女のことを考える必要などなかった。たとえ、雪が赤の他人だったとしても、葵はその姿を捉えるだろう。メルヘンな格好をしているのだ。ピンクのドレスにレースが縁取られている。袖が膨らみ、典型的な令嬢のそれだ。だが、相変わらずかったるそうで不愛想だった。あの眉の皺と言ったら、同い年の女子のものじゃない。雪の細さからして、物理の法則に反しているのではないか。
格好が目立つし、表情とあまりにちぐはぐなので目に止まりやすい。
どうやら一人のようだ。雪の視線はあさっての方を向いており、葵に気づいた様子はなかった。それどころか、周囲の好奇の目を気にしている様子もなかった。
雪が不意に歩き始めた。彼女の歩き方は上品で、その場にいる誰よりも背筋が伸びていて、美しかった。
そんな雪に見惚れていると、雪の前に可奈が現れた。恍惚とした気分が全て台無しになった。
何故あいつがここにいる?
次の瞬間、目にした光景に息が止まった。
可奈が雪に抱き着き、キスをしたのだ。雪もそれを拒むことがなかった。そして、二人は手を繋いで歩きだした。
それが葵の逆鱗に触れた。
紅蓮の炎が葵の心を包んだ。断末魔の怨念と怒涛が葵を襲った。その瞬間、葵の悪意は勢いよく走り出した。混沌とした中に溢れ出したエネルギーが、一つの形を成した。
利用しよう、この状況を。そう、私なら利用できる。これは千載一遇の好機だ。これで、可奈を地獄に突き落とすことが出来る。
全部壊してやる。全部取り上げてやる。二度と葵から雪が奪えないように。完膚なきまでに叩き潰すんだ。
葵は二人が手を繋いでいる場面を写真で撮った。本当はキスしている場面が良かったのだけれど、さすがに無理だった。
葵はその日のうちに、コンビニに行き、写真をコピーした。
そして、次の日の学校に誰よりも朝早く行き、黒板に文字を書いて写真を張り付けておいた。
<笹井可奈は白井雪がキスをしているのを目撃した。二人は付き合っている>
仲間に協力は仰がなかった。一番大事なときに限って、周りの人間は役に立たない。一人で実行するのは不安だったけど――でも本当のことだもの。実際に私はこの目で見たんだもの。葵は自分を奮い立たせた。
いざ黒板を書くとなると愉快だった。黒板に向かって葵はニヤニヤした。笑いが止まらなかった。そして、しばらくトイレに潜み、何食わぬ顔をして教室に入った。トイレで隠れている間も笑いが込み上げてきた。自分の口元から溢れ出る笑いがドアから外に漏れてしまいそうで、ハンカチを噛んだ。そして、思う存分笑った。
いつも、可奈の登校は雪より早い。雪が教室に来るまでに、可奈の心を木っ端みじんに砕いてやろう。
葵が教室に入ると、既にクラスは大騒ぎだった。葵は驚いた顔を作って見せながら、クラスメイトに話しかけ、どんな反応をするのかを観察した。
そして、とうとうその時は来た。予想通り、可奈の方が先に教室に入ってきた。その瞬間、教室はしいんと静まり返った。誰も何も言わないし、クスリとも笑わない。尋常でないクラスメイトの様子に気づいた可奈は、すぐさま黒板に目を走らせた。そして、その内容を見るなり、顔から色が消えた。
そんな可奈を見ながら、葵は本心を表情に表すまいと努力していた。嬉しくて、ウキウキと足が踊り出しそうだった。
できるだけ優しく、葵は可奈に問いかけた。
「ねえ、笹井さんって雪のこと好きなの?」
恐ろしいほどの緊張の一瞬が過ぎて、可奈は小さく頷いた。
葵はここぞとばかりに叫んだ。
「気持ち悪ー!」
そうだそうだというように、周りもゲラゲラ笑う。
可奈の顔は紅潮する。
その時、雪が教室に入ってきた。黒板を見るなり、いつもの気怠げな表情が大きく動いた。顔から血の気が失せる。
「誰だよ、こんなことしたのは!」
雪は声を張り上げて、教室を見渡した。顔は蒼白だが、目には強い力がある。雪の怒気に皆んな息を呑んでいる。
雪はクラスメイト一人ひとりに詰り、咎め、突き刺すような鋭い視線を向けていた。まるで、一人ずつ指をさして犯人だと非難していくように。それを一人ひとりの目にねじ込むように。
突然、可奈が転がり出るように教室から逃げ出した。
「あっ、待てよ!」
雪がその後を走って追いかけた。
この後彼女たちは何をするのだろう。どんな会話をするのだろう。ああ、知りたい!葵には知る権利がある。葵が仕組んだことなのだから。
葵が学校中探し回ると、二人が屋上にいるのを見つけた。言い争っている。
葵は屋上の扉の前に潜んだ。
「――とにかく、先生に話しに行こう」
雪が可奈の腕を掴むと、可奈は無言のまま、素早く容赦なく彼女の手をはらって押しやった。雪はすくんだようになってしまった。
「もう、無理だよ……」
可奈が呟いた。声が揺れている。なけなしのエネルギーが尽きてしまい、存在そのものが擦り切れるようだった。
雪が甲高い声を出した。
「馬鹿野郎! 非難しないといけないのは、あんな黒板を作った奴のやり方だ。 それと戦うなら、きちんとした正しい戦い方がある。 やりたい放題やられて悔しくないのかよ?」
葵は早く二人の前に現れたくてたまらなかった。葵だって登場したい。二人の悲劇に。いや、悲喜劇に。
「だから、私のグループに入ればよかったのに」
葵は二人に歩み寄った。
葵の姿を捉えると、雪の顔が歪んだ。
「やっぱりあんただったのか」
食いしばった歯の間から、熱気が噴出してくるような怒りの声だった。
「何でこんなことをした? 何の意味があるっていうんだよ?」
「だ、か、らぁ、言ったでしょ。 大人しく私のグループに入会してればこんなことにならなかったんだって」
雪は葵に食いつかんばかりの勢いで怒鳴った。
「本気で言ってるのか? こんなことをする奴と誰がつるみたいって思うんだよ」
可奈は少し涙ぐんでいる。手を強く握りしめて、雪と葵を見比べている。
その姿を見て、反射的にムカッときた。
雪は、可奈に対しては心から楽しそうに笑い、傷ついたときには擁護してくれる。
なのに、私に対しては笑顔はおろか、怒りしか向けられない。庇うどころか、はっきりと敵扱いだ。何故だ、何故なんだ。
私の方が雪のことが好きなのに。私の方が愛しているのに。
葵は可奈に近づいて、彼女の胸倉をつかんだ。渾身の力を振り絞って、柵に押し付けた。
「ふざけてんじゃないわよ。 被害者面して守ってもらって。 おしとやかな優等生様はね、いつもいつもそうなのよね。 言っとくけど、こうなったのはあんたのせいなんだからね。 全部全部あんたのせいなんだから」
「何言って……」
雪が息を呑む音が聞こえた。白い顔が一層白くなる。可奈の身体が傾き、足が宙に浮いたからだ。
だが、そんなことでは葵の怒りは収まらなかった。葵は可奈の足をさらに持ち上げた。
殺すつもりはなかった。だが、葵の手が滑ったら可奈は屋上から落ちるだろうと分かっていた。その結果、彼女が死んでも構わないと思っていた。
すると、雪が可奈に全身でしがみつき、引き戻そうとした。だが、柵が低いのと、雪の身長が比較的高いのが良くなかった。
可奈をつかまえて前のめりになった拍子に、雪の両足が浮いた。そして、自らそうしたかのように雪の身体が傾いた。
雪の身体が宙を舞った。それはまるで重力から解放されたかのように見えた。ふわりと空を切り、もしかしたら本当に浮くのではないかと錯覚した。それは、美しかった。こんなにも心が震えたのは初めてだった。自分の血を熱く感じた。
あとになって、葵は自分を褒めた。どんなに褒めても褒めたりないと思った。魅せられたように立ちすくんでいたのは、雪の身体が宙を舞い、地面に落ちたあの刹那だけだった。葵はすぐに自分を取り戻した。そして、回れ右をして逃げ出したのだ。可奈以外の誰にも姿を見られなかった。誰も葵には気づかなかった。仮に可奈が葵のことを言いふらしたとしても、誰もあいつのことは信用しないだろう。皆んな葵の味方になってくれるはずだ。
あの光景。あの音。屋上からコンクリートの地面に叩きつけられたのであれば、絶対に助からないだろう。雪は死んだ。
雪は死んだのだ。
歯が鳴っている。魂が鳴っている。
葵は混乱状態だった。
恍惚として、だけど気持ちが悪くて、吐き気がした。
だが、間もなく葵は冷静を取り戻した。
これからどうしよう。
その時、自分を押し包む闇のなかに、一条の光が差し込むのを葵は感じた。
そうだ。まだ利用できる。可奈の後を雪が追いかけたのは、皆んなが見ている。可奈が雪を殺したことにできないか。いや、殺したまでは行かなくとも、雪の死に何らかの関わりがあったとすることはできないか。
自分の身を守るために、可奈を追い詰めるために、可奈自身を隠れ蓑にすればいいのだ。
皆んな私の味方なんだから。
この策略に何の意味があるのか。雪とのことがあったからなのか、可奈が単純に嫌いだからなのか、葵自身にも分からなかった。ただ、可奈の学校から追い出さなくてはならないという気持ちばかりが膨らんでいた。
葵はすぐに噂を流し始めた。
――雪は、可奈と喧嘩して揉み合いになった拍子に屋上から落ちたんだって。
根拠のないウワサはすぐさま広がり、可奈は完全に孤立した。ひどく生気が失われ、クラスでの存在も希薄になった。だが、せめてもの抵抗なのだろうか、可奈は毎日周りから蔑まれようと、登校し続けた。
そんな姿を見る度に、いい気味だ、ざまあみろと心の中で呟いていた。可奈が衰弱すればするほど、雪を失った衝撃が解け、舞い上がっていく。気力が漲る。
とうとう、可奈は学校に来なくなった。
でも、可奈がどのような生活をしているのかは分からなかった。知りようもない。歯がゆくて歯がゆくて仕方がなかった。親切ごかしに、連絡しようかとも思った。だが、雪が屋上から落ちたあの場に可奈もいたのだ。どんな言葉で責められるか分かったものではないから、やめた。でも、どうしても、どうしても可奈の様子が気になって、クラスメイトに住所を聞き漁り、可奈の家を見に行った。マンションだった。可奈の家の扉には、数枚張り紙が張られていた。全て中学生の字だ。
――死んだ子と付き合っていたらしい
――お前のせいで人が一人死んだ
――色恋沙汰で人を殺した
可奈のこのざまを見てみろ。こんな張り紙をされ、どんなに情けないことか。
抑えても抑えても込み上げてくる笑いを呑み込む。葵は大いに満足した。
そして、卒業と同時に可奈は引っ越した。
高校に入学するまでの間、友達と遊ぼうと思い、電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
ルルル、ルルルルル――
がちゃり。
「ねえ、どっか遊びに行こうよ」
相手は黙ったままだった。
「何黙ってんのよ」
わずかな間があって、低い声で
『……誰も葵ちゃんとは遊びに行かないよ』
その言葉に、葵はしばらく硬直した。
「どういうこと?」
『だから、もう葵ちゃんと遊ばないし、関わりもしない』
葵はイライラした。
「何で、何でそんなことするの。 どういうつもりよ!」
『もう皆んな葵ちゃんが怖くないからだよ』
「はあ? 意味わかんない」
『人のことを簡単に傷つけて、誰がそんな子と友達になりたいって思うの?』
電話の向こうで、相手はしばらく黙った。
『雪が死んだのだって、本当は葵ちゃんが何かやったんじゃないの?』
ブチっと電話を切った。息が切れて、びっしょりと冷や汗をかいていた。葵は深呼吸を何度もして、両腕で身体をさすり、やっと落ち着くことができた。
でも――目の前は真っ暗だ。怒る気力さえ失ってしまった。力が出ない。
葵は独りになった。今も独りのままだ。
それ以来、葵は極端に寡黙になった。
何も言わない。余計なことを口走らないように。