中西穂花たち
中西穂花はとぼとぼ歩いていた。その足取りは重く、気も沈んでいる。
家に帰りたくない。
帰れば、すぐに塾の準備。夜の十時に塾が終わり、家に帰れば晩御飯を食べる暇もなく、母親に勉強をせっつかれる。
だから、家から遠い道をわざわざ歩いているのだ。
未来を考えれば考えるほど、ため息が漏れ出そうになる。
穂花だって、少し周りに目を向ければ自分の家が少々特殊であることは容易にわかるのだ。
高校入学当初、勉強する時間がなくなるからと部活に入れてもらえなかった。本当はバドミントン部に入部したかったのに。委員会も、仕事が少ないものにしろと強要された。高校入学早々、塾を三個も掛け持ちさせられ、おかげで課題に追われる日々。休み時間は、課題を終わらせるために机に向かい、友達と談笑することは滅多にない。定期テストとなれば、勉強する姿を監視される。テストが返されれば、わざわざ解答用紙を写真に収められ、間違えた問題は何故それを間違えたのか追及される。それが漢字とか古文単語とかだったら最悪だ。基本問題も解けなかったのかと、およそニ時間に及ぶ説教が待ち構えている。
それでも、穂花が課題もせずに「うるせえ、クソババア!」くらい言えたら、それはそれで破壊的解決に向かうだろうけれど、穂花にはそれができなかった。
重い足を引きずって歩いていると、
「穂花ちゃん!」
と呼ぶ声が聞こえた。
最初は自分だと思わなかった。しかし、その声がもう一度名前を呼んだところで、穂花はきょろきょろと周りを見渡した。
誰?
「穂花ちゃん、こっちだよ!」
視界の端で、誰かが大きく手を振っているのが見えた。見ると、住宅街の中にある小さな公園に、クラスメイトの込山翔子と平井莉奈がいた。
この二人と穂花はほとんど関わったことがない。会話した時も一言、二言交わしたくらいだ。
だから、こんな風に親しげに名前を呼ばれると当惑する。
そもそも、翔子と莉奈って仲良かったっけ?
「こっちおいでよ!」
莉奈が手をラッパにして大声で言った。こんな閑静な住宅街であまりにも恥ずかしかったから、慌てて二人のもとに駆け寄った。
「やっほー、穂花ちゃんって帰り道こっちだっけ?」
返答に迷った。
家には帰りたくないが、いかんせんこの二人と話したことがない。ここで会話を長引かせるのも良くないだろう。
素っ気なくして、さっさと去るか否か。
一緒の間に散々迷った挙句、家に着くまでの時間稼ぎだと思うことにした。
「ちょっとぶらぶらしてただけ。 二人は何してたの?」
「私たちもぶらぶらしてて、この公園でたまたま会ったんだよね」
莉奈が翔子に同意を求める。
「二人は仲いいの?」
穂花がそう聞くと、莉奈は大袈裟におどけて言った。
「ぜーんぜん、そんなことないの。 むしろいけすかないの。 だけど、何というか、友達になっちゃったんだよねー」
散々なことを言っているのに、悪意は感じない。言われた翔子も笑顔だ。
やっぱり仲がいいんじゃないか。
「穂花ちゃんって、めっちゃ頭良いよね」
唐突といった感じで、翔子が言った。
「休み時間もずっと一人で勉強してて偉いね」
褒められているはずなのに、どこか毒気を感じた。嘲笑されているような気がする。
ガリ勉、みたいな?
「塾の課題が終わらないからね」
「え? 受験はまだ先なのに、もう入ってるの?」
「ウン、三つ入ってる」
「「三つ⁉︎」」
翔子と莉奈の声がダブった。
が、反応はそれぞれだった。莉奈は「ヤバ……」とドン引きし、翔子は「じゃあ、穂花ちゃんの家ってお金持ちなんだ」と目を輝かせた。
しかし、莉奈はすぐに真顔になって言った。
「私たち、同じクラスメイトなのにお互いに何も知らなかったね」
そして、彼女はぱんと膝を打った。
「そうだ! これから三人で何か食べに行こうよ」
すぐさま翔子も嬉しそうに手を叩く。
「いいね、行こう行こう」
困惑するばかりの穂花の顔を見ると、翔子が申し訳なさそうに言った。
「行けない? 塾忙しい?」
「……いや、私放課後に寄り道とかしたことないからちょっとびっくりしただけ」
翔子は目を瞬くと、ちょっと笑った。
「へえ……寄り道したこともないんだ」
これではっきりした。翔子は穂花を馬鹿にしているのだ。
すると、莉奈が翔子を鋭く睨んだ。
「あんた、やめなさいよ。 あんたなんて友達と何か食べに行ったって良いように奢らされるだけでしょ」
翔子が頬を膨らます。
「そうだよ、うるさいな」
穂花はちょっと笑ってしまった。絵に描いたようなデコボココンビだ。
そんな穂花を見て、莉奈は照れたように笑った。
「じゃあ、全会一致ってことでいい?」
「ちょ、ちょっと待って」
穂花は慌てて遮った。
「私、そんなことしたら怒られちゃうよ」
莉奈はきょとんとした。
「誰に?」
「お母さんに、勉強しなさいって怒られる」
「でもさあ」
莉奈が不満そうに言う。
「穂花ちゃんはどうしたいかじゃないの?」
「私……は」
母の言葉が脳裏に浮かぶ。
――目の前の楽しみだけを追求するほど馬鹿なことはないの。今が良ければいい。今が楽しければいい。そんな考えはやめなさい。
でも、私の気持ちは――
「私も行きたい」
掠れ声しか出なかった。情けなかった。私は結局、母親に縛られたままなのだ。
莉奈の明るい声で我に返った。
「じゃあ良いじゃん、行こうよ。 一応お母さんに連絡先しておけばそれほど心配されることはないでしょ」
「そうよ。 もし何かあったら私たちで穂花ちゃんを助けよう」
穂花はまばたきした。
「どうやって?」
「皆んなでデモしに行くとか」
「あっ、いいね」
莉奈は手を打った。
「どうしても理不尽なことがあったら私たちで抗議しに行こう」
莉奈も味方してくれた。
翔子と莉奈に声を掛けられなければ、穂花が二人と話そうと思わなければ、三人で関わる機会はなかっただろう。お互いのことを何も知らないままだったかもしれない。
穂花は身体に温かい血が流れだすのを感じた。
――楽しい。
閑静な住宅街の中、少女たちの笑い声が小鳥のさえずりのようにこだましていた。