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俺は何にも聞かなかった。いや聞けなかった。夕飯を済ませて宿に入るとロージーは早々にベッドに横になった。
そしてその夜の事だった。
「……やめて……たすけて……いや……」
ロージーの声で俺は目を覚ました。元から眠りは浅い方だ。何か変事が起きた時素早く逃げられるように。
ロージーは酷くうなされている。顔はゆがみ閉じた目から涙があふれだしている。その涙を拭ってやろうと無意識に俺は手を伸ばしていた。
頬に手が触れた途端ロージーがはっと目を開いた。
大きく開かれた瞳、恐怖に震える頬、その唇が息をひゅっと吸い込み大きく開かれた。
「キ――」
俺は咄嗟に口を塞いだ。こんな夜中に悲鳴なんか上げられたら宿中の奴が起きちまう。目立つのは得策じゃねえ。
咄嗟に口を塞いだために俺は半ばロージーの上に馬乗りのような状態になってしまった。
俺の下でロージーが弱々しく藻掻く。
「落ち着け、落ち着けロージー。俺はお前を襲ったりしねえ。だから悲鳴なんか上げるんじゃねえぞ」
俺が低い声で囁くとロージーは藻掻くのを止めた。コクコクと頷いたので俺はようやく手を離した。
「吃驚させちまって悪かったな」
「ううん、私こそごめんなさい。夢とごっちゃになって……あの……ルカはどうして?」
俺はそっぽを向いた。そっぽを向いたけどロージーは俺を見つめたままだ。えーいちくしょう!
「涙を拭いてやろうと思ったんだ」
「え?」
「だーかーらーお前がうなされてて泣いてたからよ、拭いてやろうと思ったんだよ!」
ロージーはずっと俺を見つめている。俺はだんだんばつが悪くなった。
「わりーか」
「ううん、悪くない。ルカ、ありがとう」
ロージーがふんわり笑う。俺はこんな綺麗な、心がむず痒くなるような笑顔をみたことがねえ。
「ルカ、聞いてくれる?」
俺は頷いた。
ぽつぽつとロージーが話し始める。
いつしか俺たちはベッドの横に並んで座り一緒に薄っぺらい毛布を肩に掛けながら寄り添っていた。ロージーの華奢な肩が触れるか触れないかの位置にある。ほんのり温かくて物悲しかった。
ロージーことクラウディア・ローザ・アルタウスは辺境伯の娘である。母方の祖母は王家の姫だったらしいがどんな人かは知らない。母の事も知らない。母はクラウディアが三歳の頃病で亡くなってしまったから。もちろん名前は知っている。でも母については優しくクラウディアの頭を撫でてくれた手や抱きしめられた温もりをぼんやり覚えている程度だ。
父の事もよく知らない。五歳の時に王家の第一王子、エドゥアール・ディオン・ドランザムと婚約が結ばれ、クラウディアの身は王宮に移された。それからずっと王宮で暮らしていたからだ。辺境伯である父は滅多に王都に出てこないし、クラウディアが王宮に移った後に後妻を迎えたと聞いた。一男一女をもうけたらしい。それらのことを全て人づてで聞いた。父から手紙など来たことが無いし、弟や妹の顔も知らない。もっとも王宮に来た時は五歳だったから手紙など読めないと父は思ったのかもしれない。未だに手紙の一つも無い、会いにも来ないのはどうしてなのかわからない。
そして王宮でクラウディアは孤独だった。
衣食住に困ったことは無い。王族に準ずる豪華な食事や衣装は与えられた。メイドもつけられたがそれだけだった。食事はいつも一人、教育は一般の貴族令嬢が受けるのと同じ程度。友達の一人もいない寂しい幼少時代。
婚約者のエドゥアール殿下は幼いうちは優しかった。初めて顔を合わせた五歳の時、三つ年上のエドゥアール殿下は頬を染めて「かわいい! きみがぼくのおよめさんになるの? なかよくしようね」と言ってくれた記憶がある。でも成長するにつれ殿下の態度はだんだんとよそよそしくなっていった。偶に設けられる殿下とのお茶会の席でも仏頂面をして無言でいる。「君は私を軽んじている」とか「私が何も知らないとでも思っているのか」と睨みつけられたこともある。クラウディアには心当たりが無かったので何のことか聞こうとしたことがあるのだが取り付く島も無かった。国王と王妃はクラウディアに無関心で一切かかわりを持とうとしない。公的な場では話をすることもあるが私的な交流は皆無だった。エドゥアール殿下は弟と妹がいるのだが彼等とも一切の私的交流はなかった。孤独なクラウディアは本を読む事だけが楽しみだった。外に出ることを禁じられ親しいものが誰一人いないクラウディアは本に没頭している時だけ孤独を忘れられた。
成長するにつれ第一王子の婚約者として公の場に出なくてはいけない機会が増えた。しかしその頃にはなぜかクラウディアの悪評が流れていてクラウディアと親しく喋ってくれるような人はいなかった。令息たちはいやらしい目つきでクラウディアを嘗め回すように見た。令嬢たちは遠巻きに険のある眼差しでクラウディアを睨みひそひそと囁き合った。それらをどうしていいかクラウディアはわからなかった。人とかかわらずに生きてきたのだ、コミュニケーションの仕方がわからなかった。それでも悪いことはしていないとたとえ強がりだとしても胸を張って過ごした。良いことも悪いことをする機会さえクラウディアには与えられなかった。私は辺境伯の娘、第一王子の婚約者。その立場が、その矜持がクラウディアを守る最後の砦だった。嫌な目つきで見てくる令息たちも表面上はクラウディアを敬うような口調で話す。クラウディアは笑みを顔面に貼り付けて無難な態度であしらい続けた。
使用人たちにも心を許せる者はいなかった。正確に言うとクラウディアに親身になってくれるようなメイドや護衛騎士がいなかったわけではない。そういう人たちはもれなく配置換えになったり退職したりしてクラウディアの元から去って行った。そして使用人たちは主の思惑に敏感だ。第一王子を含め王家の人たちに蔑ろにされているクラウディアは侮ってもいい存在だった。公の場に出なければいけない時以外のクラウディアの世話はだんだんぞんざいになっていった。
ある日エドゥアール殿下に呼び出されたクラウディアは彼の私室に向かった。
珍しいことだった。私的に彼に会うことはもう無くなって久しい。ましてや彼の私室に足を踏み入れるなど初めての事だった。
本当は密かに期待していた。これを機会にまたエドゥアール殿下と親しくなれるかもしれない。クラウディアはもう十七歳、そろそろ結婚をする年齢だ。エドゥアール殿下はもうすぐ妻になるクラウディアと向き合う気になったのかもしれない。
そんな期待は彼の私室に入るとすぐに打ち砕かれた。
彼はソファーに座っていた。すぐ隣に美しい女性がぴったりと寄り添っている。その対面に座るよう促された。
クラウディアが座ると彼は早速話を切り出した。
クラウディアの前に紅茶が置かれてメイドが退出すると直ぐに。室内にいるのは三人だけだった。
「早速だけどね、君との婚約を解消したいんだ」
「えっ……あの……」
「君は私に相応しくない。メイドや使用人に対する仕打ちは聞いているよ。何人男を連れ込んだかもね。君ももう観念した方がいいよ」
エドゥアール殿下が何を言っているのかクラウディアはわからなかった。ポカンとして見つめているとエドゥアール殿下は苛立ったようだった。
「婚約破棄の方がいいのか? 解消のうちに素直に書面にサインして王宮から出ていった方がいいだろう」
「……私の一存では決めかねます。このことは陛下はご存じでしょうか」
やっとのことで絞り出した言葉はエドゥアール殿下に鼻で笑われた。
「父を持ち出すなんてやっぱり君は卑怯者だな。父は外遊中だが帰ってくれば私に賛成してくれるさ。君はとっととこの書類にサインして領地に帰ればいい。後の事は私が全てやっておくから」
別に国王陛下の威光を笠に着ようとしたわけではない。でもこの婚約は王家と辺境伯家の契約だ、勝手にサインをすることがためらわれたのだ。もちろん執着のようなものもある。長年孤独に耐えてきた。一人ぼっちのクラウディアは将来夫になるエドゥアール殿下が一縷の望みだった。彼が昔のようにクラウディアに向き合ってくれることが唯一の望みだった。
「君は父が外遊中だということさえ知らなかっただろう。そういうところだ、私はもう我慢できないんだ」
国王陛下の予定なんて知らない。公務で出る茶会やパーティー以外クラウディアはそういう場所に出ることが無かった。どうやって社交をするのかなんて誰も教えてくれなかった。陛下の予定どころかエドゥアール殿下の予定でさえ誰も教えてくれなかった。
「彼女はユーリア。ピーチュ侯爵のご令嬢でね、私の仕事の補佐もしてくれるしちょっとしたパーティーのパートナーも務めてくれる。非常に優秀な女性だよ。優秀で美しく優しい。私にぴったりの女性だと思わないか?」
クラウディアの目の前で見つめあい、愛を囁き合う二人。もうクラウディアはこの場に居たくなかった。目の前の書類にサインすればここから離れられる。その一心でサインをし逃げるように部屋に帰った。
部屋に戻ると使用人たちがクラウディアの荷物を纏めていた。
「婚約破棄されて田舎に帰されるんですって」
「いい気味! こーんな辛気臭い職場早く辞めたかったのよ」
「あら、楽出来ていいなんて言っていたじゃない」
「それでもねえ、王家の方々に嫌われている令嬢なんて貧乏くじだわ」
クラウディアが聞いているとも知らず、いえ、聞いていても構わないとばかりに声高におしゃべりしながらメイドたちは嬉々として荷物を纏めていた。
そうして翌朝、ひっそりとクラウディアは王宮を出された。
馬車こそ豪華だが御者が二人いる他は護衛の一人もいない出立だった。