第三百六十一話 強い風【ルージュ】
どうしても今日がいいわけじゃない。
だから・・・明日にしよう。
ティムさんの笑顔を見てから・・・。
◆
お兄ちゃんと二人でミランダさんの家を出た。
早く戻らないと・・・。
「そう・・・まあ、いいと思うよ」
お兄ちゃんにはすぐ話した。
そうするって言っちゃってたしね。
「大丈夫かな?」
「そんなに心配いらないよ。火山に行く前ならいつでもいいし」
「うん、時間はあるよね」
「ふふ、元気になってきたね。・・・そうだ、広場でみんなの似顔絵を見ていこう」
「わっ・・・」
わたしの体が浮いた。
お兄ちゃんはいつの間にか黒髪で、大きなマントの帽子も被っている。
「わたしも走った方が・・・」
「追いつけないだろ?赤毛の準備をしておいて」
お兄ちゃんがわたしを抱えて駆け出した。
速い・・・風とおんなじだ・・・。
◆
広場にはたくさんの人が集まっていて、闘士たちの似顔絵が張られた掲示板に群がっていた。
「ルージュが一番美人だな」
お兄ちゃんは不思議な動きで人波をすり抜け、一番前に出てくれた。
「そうかな・・・。セイラさんとか、シェリルさんも綺麗だと思うよ」
「お兄ちゃんの目にはそう映るんだよ」
繋いだ手はとても暖かくて、お兄ちゃんの愛が流れ込んできているみたいだ。
「イザベラさん・・・」「この女、色気やべーな」「剥がして持って帰りたい・・・」
周りから男の人の声が聞こえてくる。
「この絵を本人の前で舐め回したいな・・・」「この感じなら、誘ったらすぐ付いてくるんじゃないか?」「早く本物が見たい」
その絵は、他とは雰囲気が違っていた。
艶めかしく出された舌、悩ましく唇をなぞる指・・・オトナの女性って感じだ。
「雷神の娘ってかわいいよな」「でも聖女の騎士とデキてんだろ?俺らじゃ無理だって」「こんな俺にも優しくしてくれそう・・・」「下着・・・欲しい」
わたしの話も耳に入ってきた・・・。
「悪女って感じには見えないよね・・・」「買い物してるの見たことあるけど、礼儀正しくてかわいい子だったよ」「男を勘違いさせてるんじゃなくて、男が勝手に勘違いしてんじゃないの?」
女の人の声も聞こえる。
よかった・・・嫌われてる感じは無さそうだ。
「ふふ・・・よかったな、人気者だ」
「やだ・・・」
「母さんの噂よりはいいだろ。熊とか、ふふ・・・猪とか。ああ・・・アカデミーの時は暴れ牛か」
「た、たしかにそれよりは・・・」
いい気がしてきた。
わたしもそう思われてた可能性があるのか・・・。
◆
「ユウナギ君か・・・けっこういいよね」「もし雷神に認められなかったら、私が奪っちゃおうかな」「全身・・・色々硬そうだよね」
年上のお姉さんたちの声が、ちょっとだけわたしの不安を煽ってきた。
真面目な顔でこっちを見ているユウナギ、イザベラさんとは違った色気がある・・・。
「たしかまだ十七でしょ?」「会ったらちょっと声かけてみよー」「攫っちゃおうかな・・・」
誰にも奪われたくない。
そんなことがあったら、わたしの心は壊れてしまうかも・・・。
「ユウナギは大丈夫だよ。信じてあげないとかわいそうだ」
お兄ちゃんが頭を撫でてくれた。
・・・わたしの気持ちがわかるみたい。
「でも・・・信じるって難しいんだ。行動だけじゃ足りない時もあるし」
「・・・お兄ちゃんはそんな時どうしてるの?」
「言葉もある。不安なことは聞くよ」
「お母さんとはできてなかったんだよね?」
「・・・」
お兄ちゃんは苦笑いを浮かべている。
今はできてるけど、そうなるまでは長かった。
言ってることはわかるけど、本当に難しいんだろうな・・・。
◆
「だから明日にしようと思うんだけど・・・」
家に戻ってティムさんのことと、今日は衣装選びをしないことを二人に伝えた。
「俺もその方がいいな」
「母さんもそう思う」
二人はわたしの思いを受け入れてくれた。
楽しみにしてはいたけど、明日の方がもっと楽しくなるはずだ。
「母さん、シロはもう出たの?」
「ああ、ルージュが飛び出した少しあとだったな」
そうだった。
わたしは怒ってミランダさんの所に行ったんだ・・・。
『ちょっと言ってくる!!!』
『待てルージュ、俺も一緒に・・・』
『一人で大丈夫!!!ユウナギはここにいて!!!』
わたしが待たせたんだったっけ・・・。
あの内容だったからな・・・。
「ルージュ、ミランダさんはなんて言ってたんだ?」
ユウナギに背中を叩かれた。
「えっと・・・無駄だったんだ・・・」
「そうか・・・そんなに気にするなよ。俺はルージュの騎士だから、変な噂が流れても守るって」
「あ・・・うん」
「だから・・・一人でいいとか・・・言わないでほしいな」
寂しそう・・・。
わたしの騎士なのに「来ないで」みたいな言い方しちゃったから・・・。
「ごめんなさい・・・」
「もう気にしなくていいよ。それに、次からは何言われても一緒に行って守る」
「そうだな、ユウナギが守ってくれる。それに違うなら堂々としていればいい。母さんもそうしていたぞ」
「お母さん・・・」
ああ、二人とも優しいな。
そうだよね、違うことは違うって言えばいい。
でも・・・違くないことは、どうしたらいいんだろう・・・。
◆
「すみません、来る途中で似顔絵を見てきたので少し遅くなりました」
シェリルさんたちが来た。
・・・わたしも見てきたから文句は言えない。
それに気になるから仕方ないよね。
「すぐ番兵に取り押さえられましたが、男が私の絵を剥がそうとしていたのです・・・」
イザベラさんはムッとしている。
その男の人は、よっぽど欲しかったんだろうな・・・。
「姉上もよくあんなの許したわね・・・。あれじゃただのいやらしい女よ」
シェリルさんがひそひそ声で耳打ちしてきた。
やっぱりそう見えるみたいだ。
「販売用のはどうなってるのかしら・・・。母上が見たら相当怒るかも・・・」
「助けてあげればいいじゃないですか・・・」
「いやよ・・・。なんであんな絵になったか聞いたら、芸術を作っただけだって言ってるのよ。騙されたとかじゃないなら自分の責任・・・そうでしょ?」
芸術・・・イザベラさんがそう思ってるなら、わたしも口は出さないようにしよう。
「イザベラ、ティアナは新聞を見ていたか?」
お母さんが不安そうな顔をした。
子どもたちと・・・ティムさんの心配だよね・・・。
「はい・・・。ただ、子どもたちにはまだ見せないようにすると・・・」
「そうか・・・。ティムのことはなにか言っていたか?」
「新聞の記事に関しては特に・・・。ですが、子どもたちにどう説明するかの話は聞きました」
ティムさんは、子どもたちのためにティアナさんからのお願いを受け入れた。
スウェード家で生まれた男子は分家扱いになって、テーゼで暮らすことになっている・・・。
訣別が済んだはずだったのに、また親子という扱いにされてしまった。
本当はとっても嫌だったはず・・・でも、ティムさんは優しい。
ティアナさんに思うところはあっても、弟と妹たちにはその通りにしてくれる。
『・・・ルージュの顔を立てるだけだ。俺によこせ』
家長の剣も、本当は受け取りたくなかったのかもしれない。
『俺が納得するくらい強くなってたら・・・この剣返してやるよ』
たぶんだけど・・・あれもわたしのためのような気がする。
真意を聞くことはできない。
それはティムさんの心を傷付けることだと思う。
だから・・・あの時言葉にしていたことは、全部本心だと思うことにしている。
お兄ちゃん、そういう愛も・・・あるよね。
◆
「・・・今日はここまでにしよう」
夕方の鐘が鳴る前に鍛錬が終わった。
ティムさんのことがあるから今日は早めだ。
ただ、イザベラさんとシェリルさんには伝えていない。
ティムさんもハンナさんたちも知られたくないはず・・・。
「明日からも同じ内容でやろう。全員頑張ってくれ」
今日から変わったことがある。
最初の走り込みは一緒だけど、そのあとは三組に分かれてやることになった。
わたしはお兄ちゃんと、シェリルさんはお母さんと、ユウナギとイザベラさんはジェイスさんと組んでひたすら実戦の繰り返しだ。
うーん・・・お兄ちゃんたち教える側の人たちは鍛錬になるのかな?
あ、でもシロとかに人形を出してもらえば大丈夫か。
「頼むぞジェイス、ユウナギを私に勝てるくらいにしてくれ」
「・・・できるだけはしてやる。イザベラさんもニルスに近付けてやろう」
「あ、ありがとう。厳しく・・・頼む」
一日目組と二日目組、同じ日に当たる可能性がある人を離して、これからは組ませないらしい。
「シェリル、息が上がるのが早い。それではティララやイライザさんに押し負けるぞ」
「努力します!明日もよろしくお願いします!」
お母さん・・・その二人のどっちかと戦う前にわたしがいるかもしれないんだけど・・・。
◆
ミランダさんの家へ歩き始めた。
もう夕方だし、赤毛はいらないかな。
「ルージュ、ユウナギ。大会も大事だが、明日は急がずにしっかり二人で決めてくるんだぞ?」
お母さんはずっと笑顔だ。
「幸福も大事だ。それで思いが高まり、より強い力を出せることもある」
「思いを?」
あれ・・・誰かも同じようなことを言ってた気がする。
『いや、あとは瞑想くらいでいいらしい。思いを高めろってさ』
あ・・・ティムさんだ。
それなら、今日でかなり高まると思う。
◆
「すげーな、じーさんの身体じゃねーみてーだ。バケモンかよ・・・」
「失礼な娘じゃ・・・」
「けど・・・歳相応に疲れやすくはある。長い時間戦うのは厳しいな」
「そうか・・・」
ミランダさんの家に入ると、モナコさんがおじいちゃんの身体を触っていた。
ああ・・・しばらくぶりだ・・・。
「モナコさん、この人に病気はある?」
ナツメさんが頼んだのかな?
「無い・・・種もじじいのくせに三十代くらいの活きだ。奥さんもイケそうだし、二人目仕込め」
「へ・・・二人目って・・・私もう四十七・・・」
「診せろ・・・」
モナコさんがナツメさんのお腹に触れた。
透視か・・・。
「・・・まだ大丈夫だ。あたしの見立てだと、来年までは作れる」
「・・・本当に?この歳だと・・・大変って聞くけど・・・」
「女盛りだろ?」
モナコさんが紙になにかを書き出した。
「・・・想の月までの授かりやすい日だ。必要なら使え。それと・・・やる気があるならその日の朝にこれ飲め」
「むう・・・ユウナギができるまで焦っていたが、医者に相談すればよかったのか・・・」
「あたしくらいの透視と知識が必要だ・・・スナフにはいねーだろ?・・・それともう一つ、鍛えんのやめんな。そうすりゃあと三十年は生きる」
「なんと・・・まだ人生を楽しめるのか・・・」
・・・いい話を聞いてしまった。
おじいちゃんとナツメさんの間に子ども・・・ユウナギに弟か妹ができるかもしれない。
「もう八十でバカ言ってんじゃねーよ・・・」
ユウナギは眉間に皺を寄せていた。
あんまり嬉しくないのかな?
わたしだったら・・・嬉しいかも。
そういえばお兄ちゃんをお願いしたことはあったけど、下を考えたことはなかったな・・・。
「あんたたちも診てやろうか?」
モナコさんはセレシュとシリウスにも話しかけた。
さ、さすがに早いんじゃ・・・。
「いや・・・私はまだ・・・いいです」
「ボクも・・・もうちょっと先で・・・」
まあ、そうだよね・・・。
「そっちの双子はどうだ?」
「え・・・あたしも別にいいです・・・」
「私は・・・一応・・・」
あれ・・・シロがいない。
「ノアさん、シロはどこですか?」
「・・・」
「ノアさん?」
「え?あ、ああ・・・久しぶりだねルージュ」
ノアさんはずっとモナコさんを見ていた。
・・・見惚れてた?
「あの、シロはいないんですか?」
「シロはスウェード家で子どもたちと遊ぶみたいだよ。使用人さんが四人も抜けるからね。・・・あと、カゲロウさんもあっちに行ってくれた」
「あ・・・」
言われてみればそうだ。
ティムさんと子どもたちのためか・・・。
◆
「・・・まだティムは来ないのね」
オーゼさんは優雅にお茶を飲んでいた。
姿はいつも通り・・・だから、おじいちゃんがチラチラ見てる気がする。
「あらルージュ。さっきダリス様たちにも会ってきたの。毎日楽しいって言ってたわ」
「よかったです。わたしは鍛錬で会えていなかったので」
顔を出せなくてちょっと悪いなって思ってた。
「心配無いわ。なにか言伝はあるかって聞いたら、大会楽しみにしてるよって。ドリス様ともより仲良くなってるみたいだし、あなたは鍛錬に集中なさい」
「はい、頑張ります」
仲良くか・・・。
ジーナさんの所に移ったからなのかな?
「バニラも誘ったんだけど、シー君が迎えに来たら一緒に行くって言われちゃったの」
「それがいいと思います」
たしかお祭りの前の日って言ってた気がする。
今日来ることもできたけど、大好きなシロとの約束を優先するってことだよね。
◆
「暇だな・・・まだティムの野郎は来ねーのか?おいじーさん、あんたの弟子だろ?引っ張り出してこいよ」
「かわりにしり・・・いや、なんでもない」
「あなた・・・何を言おうとしたの?」
「夫婦喧嘩なら外でやれ。・・・おせーな」
モナコさんがそわそわしだした。
約十年ぶりだし、早く話したいんだろうな。
わたしが気を紛らわせてあげよう。
「来たらどうするんですか?」
「そうだな・・・まずは・・・」
モナコさんが答えを言いかけたと同時に扉が開いた。
「・・・なんだよ」
「挨拶が遅いんじゃねーのか?」
「来たばっかだろーが・・・」
入ってきたティムさんは、いつの間にか消えたモナコさんに抱きしめられていた。
今の動きは・・・お兄ちゃんよりも速かった気がする。
どうするかなんて、聞くまでもなかったな。
「・・・背が伸びたな。いい男になったじゃねーか」
「別に・・・」
嬉しそう。
「こっちはどうだ?硬くしてみせろ」
「触んな・・・」
嬉し・・・そう。
「離れろ・・・。ルージュ、セレシュ、俺は会議室で待つ。ハンナたちが来たら案内してやってくれ」
ティムさんはモナコさんを無理矢理引き離した。
「おい待て、あたしも一緒にいてやるよ」
「じゃあ私も」
「ベタベタすんなよ・・・」
ティムさん、モナコさん、オーゼさんが談話室を出て行った。
今の感じ、ラミナ教官が見たらどう思うんだろ?
たぶん今は帰り支度をしてて、もうすぐここに来るはずだけど・・・。
「みんなの紹介は再会のあとってことか」
お兄ちゃんが呟いた。
「それがいいだろう。ハンナたちが来たら、まずは会議室に行かせてやればいい」
お母さんもそのつもりで来たみたい。
一緒にいれるのは、わたしとセレシュだけになるのか・・・。
◆
春だけど、夜風はまだ少し冷たい。
外にいると指先が冷えてくるけど、ここで待ちたいと思った。
「あ、ラミナ教官だ」
セレシュが人影に手を振った。
じゃあハンナさんたちが最後か。
子どもたちの夕食が終わってからなのかな?
「グリーンさん・・・クラインさんも・・・もしや・・・」
「えっと、ハンナさんたちはまだです。ティムさんは会議室にいます」
「よかった・・・まだいらしていないのですね。では私も・・・会議室で待っています」
ラミナ教官は息も整えずに中へ入っていった。
一番最後は嫌だったのか。
◆
まだうっすらとあった藍色が無くなり、空は星が瞬く黒に覆われた。
あとどれくらいだろう・・・。
「・・・あら、ルージュもセレシュも外で待っていたの?」
ステラさんの声が闇の中から聞こえた。
突然現れた気配は、ステラさんを入れて五人・・・ティムさんのお母さんたち・・・。
「ちょうどよかったわ。この子たちがルージュとセレシュよ」
わたしたちは光の魔法で照らされた。
ハンナさんと、その後ろに三人の女性がいる。
「・・・」「・・・」「・・・」「・・・」
四人は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
うん、順番があるよね。
「ステラさん、私たちのことはティムさんに紹介してもらいます」
「ああ・・・その方がいいわね。ティムは・・・」
「中にいます」
「わかった。じゃあ四人をあなたたちに任せるわ」
ステラさんも会議室に来る気は無いみたい。
まだ帰ってないけど、ミランダさんもそうなんだろうな。
◆
「心の準備はいいですか?」
「できていなくても大丈夫です」
「・・・」「・・・」「・・・」「・・・」
わたしとセレシュは、四人の女性と一緒に会議室の前に立っている。
途中で談話室の前を通ったけどみんな静かだった。
「じゃあ・・・」
「はい・・・」
「まだ泣いちゃダメですよ」
セレシュが扉を叩いた。
「ティムさん・・・」
「・・・そっち行くよ」
足音がゆっくりと近付いてきた。
「・・・」「・・・」「・・・」「・・・」
みんな胸を押さえている。
◆
「全員・・・入れよ」
ティムさんは、後ろの四人を少しだけ見てから言った。
わたしとセレシュにとってはいつも通りの姿だけど、ハンナさんたちにはどう映っているんだろう・・・。
「さあ・・・」
「入りましょう」
わたしとセレシュで四人の手を引いてあげた。
ちょっと重い・・・。
◆
全員が部屋に入るとセレシュが扉を閉めた。
「・・・」「・・・」「・・・」
会議のための大きな四角いテーブルで、オーゼさん、モナコさん、ラミナ教官は黙ってこっちを見ていた。
待っている間、四人でたくさん話したんだろうな。
「もう・・・十二?十三?そんくらい経った・・・」
ティムさんは振り返って、改めて四人を見つめた。
「・・・」「・・・」「・・・」「・・・」
わたしとセレシュは静かにテーブルへ向かった。
待ち望んでいた再会・・・わたしたちが目に入ってはいけないと思う。
しっかり見せてはもらうけど・・・。
「ハンナとは・・・予選の時に会ったな」
「は・・・はい・・・」
「この前は言えなかったけど、なんか老けたな」
「お目汚しを・・・」
ハンナさんの唇が震えた。
ふふ、ただの照れ隠しだ。
本気にしちゃいけないよ。
「でも・・・すぐにわかった。それに・・・お前らも・・・ちゃんと憶えてるよ」
ティムさんが一番右端に立っている女性の前に立った。
「ノーラ・・・」
「ティム様・・・」
ノーラさんが抱きしめられた。
「お前はいつも・・・俺の口になにか突っ込んでったな。気付かれないうちに早く飲み込めってさ・・・」
「・・・」
「けど・・・俺はもっと味わって食いたかった。だから・・・また作ってくれ」
「はい・・・はい・・・」
ずっと憶えている味・・・それくらいおいしかったんだと思う。
◆
「治癒はお前から教わったな・・・イブ」
「・・・」
イブさんと呼ばれた女性は、自分からティムさんを抱きしめた。
「お前が教えろって命令された時・・・あいつらの前では、オスには触れたくないってずっと言ってたな」
「嘘に・・・決まっているではないですか・・・」
「知ってるよ・・・。夜にお前の部屋行ったら・・・こうやって教えてくれただろ?その晩はそのまま一緒に寝てくれた。・・・あいつらには触れるまでひと晩かかったって説明してたな・・・」
主に嘘までついてくれたのか・・・。
「まあ・・・そのあと、あの女に殴られたけどな。お前がオスだから悪いとか言ってたよ」
「私に・・・黙って・・・いたのですか・・・」
「別にいいんだ。教わった治癒・・・早く使いたかったからな・・・」
「あ・・・ああ・・・」
イブさんはノーラさんよりも大声で泣いた。
ティムさんの治癒はとても暖かかった記憶がある。
あれは教えた人から貰ったものだったんだね。
◆
「あいつらが屋敷にいない日・・・俺はお前の料理が楽しみだった・・・ヘレン」
「ティム様・・・」
三人目、ヘレンさんも自分からティムさんを抱いた。
みんなは、どんな顔してるんだろう・・・。
「・・・」「・・・」
オーゼさんとモナコさんは微笑んでいた。
「・・・」
ただ一人、ラミナ教官だけが優しい笑顔でヘレンさんを見ていた。
「海鮮のスープとパン包み焼き・・・あれが一番好きだったんだ」
「はい・・・また食べたいと・・・いつも仰ってくれましたね・・・」
「今でもそうだ・・・。あとで紹介するけどさ、俺の大事な女もそれが作れるんだ。だから・・・好きになった」
あ・・・ラミナ教官が初めてこの家に来た時に作ってくれたものだ。
『俺の・・・そうだな・・・海鮮のスープとパン包み焼き・・・できるか?』
『できます。喜んでいただけるものを作りましょう』
そっか、笑顔の理由はヘレンさんへの感謝だったってことだね。
◆
「ハンナ、いつも悪かったな・・・」
ティムさんは、最後にハンナさんの前に立った。
「私は・・・辛かったとは思っていません・・・」
「ほとんど毎晩・・・来てくれて嬉しかった。特に真冬の夜・・・お前は気の魔法でベッドを温めてくれた・・・それでも寒かったろ?」
「ティム様が暖かったので・・・感じませんでした・・・」
「・・・ハンナもそうだった。なんていうか・・・ありがとな」
わたしとセレシュはずっと泣いていた。
この光景はずっと残しておきたいって心が言っている。
もっともっと色付けたい・・・。
「私たちを・・・憶えていていただいて・・・」
「当たり前だろ。・・・本当に全員憶えてる。服を直してくれてたのはアーネスト。真夜中に屋敷を抜けて、薬を買いに行ってくれたのはクィン。バレねーように、小さな光で勉強を教えてくれたジョアンナ・・・」
ティムさんはハンナさんを抱きしめながら目を瞑り、一人一人を思い出しているみたいだ。
「屋敷を去った者には・・・手紙を出しました。きっと・・・大会を見に来てくれるでしょう・・・」
「そうか・・・まあ、顔見たらすぐわかる」
「私たちも・・・会う予定です」
「じゃあ・・・帰る時に美容水と石鹸を渡す。あいつらに渡してくれ」
少しずつ、少しずつ・・・みんながささやかな幸せと愛を渡していた。
だからわたしとセレシュにも優しくしてくれていたんだろうな。
「お前らにも渡そうと思ったけど・・・使ってるみたいだな。・・・色付く朝か」
「はい・・・ステラ様から・・・いただきました」
「余計なことしやがって・・・」
色付く朝・・・お兄ちゃんの使ってる石鹸だ。
でも、お兄ちゃんが使うとなぜかちょっと変わるんだよね・・・。
◆
「・・・とりあえず座ってくれ」
ティムさんがハンナさんから離れた。
うん、座ってほしい。
「まずこいつらをしょう・・・」
「待ってください!」
ハンナさんが声を張った。
どうしたんだろ?
ぎゅっとされたまま話してほしかったのかな?
「教えていただかなければならないことがあります」
ハンナさんは真剣な顔だ。
・・・わたしの想像とは違うみたい。
「なぜ・・・急に出て行かれたのですか・・・」
「そうです・・・教えてください・・・」
「どうして私たちに話してくれなかったのですか・・・」
「私たちは・・・頼りなかったですか?」
ああ・・・たしかにそうだ。
スウェード家での生活が辛かったのはわかるけど、ハンナさんたちがいたのなら相談くらいしてもいいはず。
「あたしらは構わないから教えてやれ。けど・・・まずは座ってくれよ」
モナコさんが腕を組み直した。
わたしも知りたい・・・。
◆
「アカデミーが終わって、帰り道でさ・・・俺はこれからどうなるんだって・・・考えちまったんだ」
全員が椅子に座ると、ティムさんが話し出した。
「自分がこれからどうなんのかも聞いてない・・・。とりあえずあいつらの憂さ晴らしで、いつのまにか死んでいくのかって・・・」
「・・・」「・・・」「・・・」「・・・」
四人は黙って聞いてくれている。
それが早く真意に辿り着く方法だから・・・。
「考えながら・・・なんとなく街道近くまで歩いたんだ。だけど・・・急に苦しくなってさ・・・うまく呼吸ができなくなった・・・」
「ティムさん・・・」
「ルージュ、想像できるか?この俺がうずくまっちまったんだ・・・。自分のこの先を考えて・・・。ハンナたちも実際疲れてる・・・それも少し辛いなって・・・」
ティムさんは瞼をぎゅっと閉じた。
アカデミーが終わる・・・それは家にいる時間が増えるということ。
ティムさんは優しいから、ハンナさんたちの負担とかも考えてしまったんだ。
呼吸ができなくて、体に力が入らなくて・・・。
『これを・・・わたしに渡さなければ・・・お母さんは助かっていたんですか?』
わたしにも憶えはある。
でも、ティムさんのそれはどのくらいの絶望だったのか・・・想像がつかない。
「うずくまっているだけで、飛び出そうって思えるほど心が回復したとは思えないけど・・・」
「ああ・・・まあ・・・そうだな」
オーゼさんが冷静に問いかけると、ティムさんはごまかし笑いをした。
たしかにそうかも。心が弱っていた状態で飛び出すっていうのもなにか違和感がある。
なにか、きっかけがあったんじゃないかな・・・。
「風・・・風が吹いたんだ」
ティムさんは天井を見上げた。
風・・・。
「体が浮くくらい・・・すげー強い風だった。なんか・・・楽になったんだよ」
優しい微笑みが見えた。
たぶん、顔を上げられたその時の状態なんだと思う。
「風ね・・・それに乗ったってこと?」
「そうなんのかな。おかしくなってたのかもしんねーけど・・・」
ティムさんが大きく息を吸い込んで吐き出した。
「風がさ・・・飛び出しちまえって言ってたんだよ」
なにか根拠があるわけじゃない。
だけど、その風はお兄ちゃんのような気がした。




