橙花姫
「なんっだよコレ」
浩司は立ち尽くすしかなかった。
「何なんだよ……」
呆然とした呟きが、掠れて己の耳に届く。
「……ケーゴ……」
打たれた頬の痛みが、現実なのだと、非情にも感じさせていた――。
いわゆる親友。
それが浩司と啓悟の関係だった。小学二年の夏、啓悟が越してきて以来の付き合い。もう六年になる。
初めて出会った時、二人は共通して感じていた。――初めてではない感覚。
啓悟が話しかけ、浩司が遊びに誘い、気が付けば誰よりも仲良くなっていた。ケンカをすることもよくあったが、それは言いたいことを言い合える仲だったから。
――ずっと続くと思っていた。なのに、いきなりこんなことになるなんて。
晴れた日、だった。昨日。
夏だというだけでなく日が強く照っていて。暑い暑いとぼやきながら珍しく宿題のために肩を並べて図書館へ向かっているところであった。
……もうそんなことも、おぼろげにしか思い出せない。
空が光った。
不意の出来事に立ち止まり天を仰いだ浩司の上から、光の塊が落ちてきた。落雷だと気づいたのは、――空には雲ひとつなかったが――道にへたり込んで呆けている自分の右の手に痺れを感じたからだ。
直撃しなくても生きてはいられないものだろうにと、のろのろした思考で思った浩司は、自分を突き飛ばした親友が気になった。
もしかしたら自分のせいで。
そう思うと確認するのも怖かったが、目をやった先に何事もなく啓悟がいて無事が知れる。何が起こったのかわけが分からないながらもほっと胸を撫で下ろした浩司だったが、すぐに異変に気が付いた。
「ケ……ゴ……?」
路地に棒立ちになったまま、身動きしない。
その背後にへたり込んでいる浩司には啓悟の表情は窺い知れない。
「大丈夫、か……? ケーゴ……?」
恐る恐るの浩司に、しばらくして聞き慣れた声が返る。そのことに安堵したものの怪訝にも思う。
「帰る」
という唐突なものだったから。――大変な目に遭ったのだから当然、と思うべきなのか。
「またな、コージ」
それが、友人としての最後の言葉だなんて、思いもしなかった。
そうして翌日、目の前に現れた昨日まで互いに親友だと思っていたはずのその人物は、冷たい眼差しで自分を見ている。
それは嫌悪だろうか。……何の感情もそこからは読み取れない。
「ケーゴ……?」
「啓悟じゃない。わたしは梛嵯。そして――お前、薫は、」
知らない啓悟。見たことのない表情。空は昨日と同じに晴れていて、そしてやっぱり汗が出るのに。
寒い。とても。嫌な汗。場所だって昨日と同じはず。なのに、遠い――――。
カオル? ナギサ?
頭の中でグルグル回る。いや、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されているかのようだ。
俺は浩司だろ? お前は啓悟だろ? 何言ってんだ、俺たちは――
「敵だ」
「友達だろッ!!」
重なる。敵、友、二人の声。相反するようで似ていると思わせる言葉。静かに、静かに、睨み合う。
息苦しい空気がゆらりと揺れる。
「梛嵯」
女の、声。気だるげな。艶っぽい。――気持ちの悪くなる。
「梛嵯。挨拶は済んだ? そろそろ行きましょう?」
黒髪の長い、艶やかな肢体の女が、啓悟――梛嵯にしなだれかかった。彼は表情を変えず相変わらず浩司と見詰め合う形。
女がいつどこから現れたかなど、考えられもせず。浩司はあまりのことに手放しそうになる意識を必死に留めるしかない。
「……梛嵯。あの人が呼んでるわ」
「――――すぐに終わらせる」
言うと梛嵯は女の手を払い、ゆっくりと浩司へ歩む。その姿に……別の誰かが重なる。
見たことのない――いや、本やテレビで見たものに似ている――着物に似た格好。そういえば女も着崩れてはいるがそんな様子をしている。
そして。背まである黒髪。鋭い瞳。整った顔立ち。重なる姿をそのままに、梛嵯が呼びかける。
「薫」
「違う……」
「薫。わたしが思い出してお前が思い出せぬわけがない。――あのことを」
「知らない……ッ」
「薫ッ」
「俺は浩司だ! カオルなんて知らないッ!!」
迫る親友の姿をした少年に圧されるように、否定そのもののように、退く。
怖い……何もわからない……知らない…………それでいい………………。
ソレデ、イイ?
浮かんだ言葉に浩司自身戸惑う。もう本当に目の前まで迫った梛嵯の影が揺れる。ますます重なった姿が濃く映る。
「橙花を! 橙花姫様を忘れたと言うのか!!」
梛嵯の叫び。――脳裏に浮かぶ、まだ幼い少女。
可憐で、儚くて。優しくて、気高くて。喩えるなら花。その名の通り、花のような少女。
「薫!!」
乾いた音が空に響いた。遅れて走る痛み。
ぼんやりしていた視界が戻ると、すぐそばに怒りに彩られた友の顔。
「よもやこれほどに情けなき男だったとはな。――これはほんの挨拶だ」
そう言って背を向けると梛嵯と女の姿は掻き消えた。
残されたのは頬の痛み。そしてそれ以上に、胸が痛かった。
「何なんだよ……」
幾度目かも知れぬ呟き。
本当に、何もかもが分からない。
――これは夢?
そう思いたかった。そう思えるのなら。どうか、そうであってくれと。
「嘘だ……」
呆然と、放心して立ち尽くす彼は気づかない。見慣れた路地から見知らぬ場所へと、周囲が変化したこと。カラリと音を立てて小石が落ちてきたことに。背後からの視線に。小さな人影に。
「信じない――――」
彼はまだ、気づいていなかった。
これが、記憶にない時間を経て再度始まる戦いの幕開けだということに――――――。