少女A(3作目)
彼。
近衛くんには、いつ別れを切り出しましょうか。
「尾上さん、ここの数式わかる?」
「はい」
「本当?教えてくれないかな」
近衛くんの告白をお受けして以来、私は彼と一緒にいても、ずっとそんな事ばかり考えてしまいます。
一度告白を了承したにも関わらず、なんて無責任なのだとーーそんな芯まで醜い自分に、つくづく腹が立ちます。
「はぁ…」
と、思わず大きなため息をついてしまいました。すると、数式を声に出して確認していた近衛くんが声をつぐみ、表情がみるみる強張っていくのがわかります。ああ、やってしまった、と彼に少し同情しつつも…
全く焦りはありませんでした。
「ごめんなさい。少し具合が悪いみたい」
私はそう適当に理由をつけ、教科書とノートを片付けて、席を立ちます。
これで、彼は私のことを嫌いになったでしょうか。
それならば、ちょうど良いのですが。
「尾上さん」
教室を出ようとした時。
彼の手が、私の腕をそっと掴みました。
「ダメだよ。ぐ、ぐ、具合悪いのに1人で帰っちゃ。送っていくよ」
彼はそう言うと、私の腕から直ぐに手を離し、席に戻ります。そして教科書とノートをカバンに無造作に詰め込みーーまた小走りで、立ち止まっている私の方へと向かってきました。
「大丈夫?家まで歩けそう?」
彼が心から心配するように汗を数筋垂らしながら言うので、私は元々彼を騙している事もあって、流石に申し訳なく思いーー
「大丈夫です」
と、彼から少し目を逸らしてしまいました。
〜〜〜〜〜〜
「尾上さん、家までどれくらいかな」
「あと10分くらいです」
彼は自転車通学なのですが、私に合わせて、自転車を押しながら車道側を歩いてくれています。こうして、普通に気遣いができる子ーーというのが、彼とお付き合いしての印象の一つでした。
「そっか。ぐ、ぐ、体調が悪化したら言ってね」
彼は口を隠すように手を当てて、そう優しく言いました。
もう一つの印象。
彼は少しだけ吃音がありました。
彼は主に『濁点から始まる言葉』が言い辛いようで…今も「具合悪い」が発言できず、咄嗟に「体調が悪化」という文言に言い換えたのでしょう。
吃音が出ている時の彼は、傍目でも分かるくらいに顔をしかめ、不安そうな顔をします。だから彼は吃音が出ると、咄嗟に右手で口元を隠す。そして言い切る事ができなければ、別の言葉に置き換える。
その一連の対処が滑らかに癖づいている事からーー
彼は吃音と付き合って、かなり長いのだろうという事が察せられました。
「尾上さん、ど、ど、どうしたの」
私がそう考え込みながら彼の顔をあまりにじっと眺めるので、彼は赤面してしまって、また口元に右手をやり、私から目を逸らしてしまいました。
彼は、どこまでも平凡な中学生。
しかし、『何か』が足りないーー
私と同じですね。
「着きました」
マンションの前で立ち止まり、そう彼に声をかけます。
「あ、ここか。良かった、ちゃんと着けて」
彼はそう言って屈託なく笑いました。こんなボロボロのマンションを見ると、人によっては他意が顔に出てもおかしくないと思われますが…彼はそんな様子など微塵も見せず、ただ私を無事に送り届けられた事に安堵しているようでした。
彼は私と違って、性格が歪んでいない。
ただただ自分の『足りない』部分と、共存しようとしているーー。
私なんかよりも、数倍偉い。
「ありがとうございました」
私は彼に、お礼を言いました。
彼は少し気恥ずかしそうな顔で、「うん」とだけ言いました。
「じゃ、また明日ー」
彼は持ってくれていた私のカバンを渡すと、自転車のペダルを勢いよく漕いで去っていきます。そんな彼の後ろ姿を見ているとーー
少しだけ、元気が貰えたような気がしました。
彼を見送ると、私はマンションの3階に上がり、部屋の鍵を開けます。
今日はなんだかーー
ただいま、と言いたい気分でした。
「ただいま」
数年ぶりにその言葉を口にしました。
誰もいない真っ暗な部屋に、凩のようにその言葉が反響します。
今はもう、11月末。
秋ももうすぐ、終わります。
靴を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れます。
その部屋の風景自体は、いつもと何ら変わりありません。
机の上にぽつんと置かれている封筒と、二つ折りの紙以外は。
私はまず封筒を手に取りました。
そして中をそっと拝見するとーー
そこには5枚の1万円札のみが、無機質に封入されていました。
そして次に、私は横の白い紙を手に取りました。
そして二つ折りを開くとーー
そこには一言、こう書かれていました。
ごめんなさい
私はただ無表情で、その六文字をじっと眺めます。
冬の訪れを感じさせるような寒気が、
肌をちくちくと刺していました。
おわり